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神戸に関連する/しない新聞記事をスクラップ。神戸の鉄ちゃんのブログは分離しました。人名は全て敬称略が原則。

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神戸市教育委員会が「監理室」設置 学校巡回「地区統括官」も <2020/2/14 19:50神戸新聞NEXT>を編集

 神戸市教育委員会は2020年度、「監理室」を設置する。市立小中学校を巡回し、学校運営を支援する「地区統括官」(部長級・常勤)を新たに設け、校長経験者8人を任命。弁護士や学識経験者、臨床心理士など外部の専門家も加える。市立小学校の教員間暴行・暴言問題を受けた刷新策で、全国的にも異例の取り組み。

 学校現場と市教委事務局をつなぐ役割を担う地区統括官は、校長経験者で、市教委の要職にも就いた経験があるベテランから人選。小学校と中学校に担当を分け、1人20~30校を受け持つ予定。日常的に学校を巡回し、校長や教諭との対話や相談を通じて、課題や問題がないか確認する。

 また、教員間暴行・暴言問題を受けて2019/11、市教委総務部に新設した改革特命担当課長を監理室長に移行する。監理室には、地区統括官や外部人材による学校支援をコーディネートする監理係3人と、教育委員会会議などを担当する調整係3人を配置する。

 外部人材は、2019年度から児童生徒課で1人採用している弁護士の「学校法務専門官(常勤)」を3~5人に増やしてチームを編成。教職員に対するコンプライアンスの指導・助言、学校園への訪問調査などを担う。臨床心理士や社会福祉士ら「学校支援専門官」(非常勤)も10人前後を任命。重大事案が発生した場合、学校に入り、保護者や児童対応などで教員をサポートする。

 教育行政に詳しい学識経験者による「教育監理役」(非常勤)も2、3人を任命する予定。教育行政全般について、市教委に助言してもらう。

■懸念される学校の官僚化
【名古屋大大学院教授(教育行政学)の中嶋哲彦】
学校は本来、教育委員会から独立して運営されるものだが、これだけ大がかりな仕組みを作ってしまうと、校長以下の教職員に対する監視が強まり、萎縮させることが懸念される。学校の官僚化が進んでしまうのではないか。例えば、臨床心理士や社会福祉士は、子どもや保護者の思いをくみ取って学校と必要な福祉サービスをつなぐ役割。問題が起きないようにする仕組みづくりの方が重要だ。今、神戸の教育に求められているのは、学校や市教委の教職員一人一人が、正しい見識を持って働くこと。市教委は手を打つべき所に打っていないような印象を受ける。
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「六甲アイランド南」港湾整備再開へ 震災で計画凍結、貨物量回復で機能強化 <2020/01/15 神戸新聞NEXT>を編集

 神戸市は、廃棄物で埋め立てている人工島「六甲アイランド南」について、港湾物流拠点の整備計画の凍結を解除する検討を始めた。神戸市は2001年、阪神・淡路大震災で被災した市民の生活再建を加速させるとし、埋め立て完了後の拠点整備計画をいったん凍結していた。ただ、震災から25年たち、神戸港の貨物取扱量は高水準で推移しており、神戸港の機能強化を図ろうと、拠点整備に向けた計画を再開する必要があると判断した。

 今後10年間の取り組みを話し合う神戸港港湾審議会(神戸市長の諮問機関)の下部組織の議論を踏まえて凍結解除を決め、2020年度に改定する「神戸港港湾計画」に盛り込む。

 六アイ南は、関西一円で生じる廃棄物で海面を埋め立てるフェニックス計画で造成されている人工島。神戸・六甲アイランド沖に333haの人工島が完成する予定で、神戸市は大型コンテナ船が寄港できる大深水岸壁の整備計画を1995/02にまとめた。しかし、震災直後で市民生活が混乱しており、被災者支援を優先させる観点から、2001年に六アイ南における拠点整備計画を凍結するとしていた。

 一方、国は主要港の国際競争力を高める一環として、西日本のコンテナ貨物を神戸港経由で輸出入させる施策を展開。世界的な景気拡大を背景に、神戸港の2017、2018年のコンテナ貨物取扱量は、これまでの最多だった1994年の実績(291.6万個)を2年連続で超えた。

 神戸市によると、神戸港では物流施設の建設地を求める企業からの引き合いが増え、適地がなくなりつつある。輸出入機能が相対的に低くなれば、兵庫県内メーカーの県外流出につながる懸念があり、六アイ南の港湾物流拠点整備が急務になっていたという。

 神戸市は開港150年に合わせて2017年に発表した神戸港の将来構想で、六アイ南を製造・加工機能を備えた港湾物流拠点に整備する案を打ち出している。神戸市の担当者は「神戸市内の経済活動の3割が神戸港に関連している。素材や半製品の付加価値を高める拠点にして、アジアの貨物を神戸に呼び込みたい」としている。

【大阪湾フェニックス計画】
 近畿圏で発生した廃棄物で大阪湾を埋め立て、生まれた土地に港湾を整備する事業。自治体や港湾管理者が出資する大阪湾広域臨海環境整備センターが進める。1990年に廃棄物の受け入れが始まった尼崎沖をはじめ、泉大津沖、神戸沖(六甲アイランド南)、大阪沖の計4カ所が処分場。六アイ南には、廃棄物以外に浚渫土砂なども使われている。
新長田再開発2020/02完了へ 神戸市、未買収1区画を除外 震災25年 <2020/01/11 06:01 神戸新聞NEXT>を編集

 神戸市は、阪神・淡路大震災後に進めてきた新長田駅南地区再開発事業(20.1ha)で、土地買収が進まない1区画を事業対象から外し、事業を完了させる方針を決めた。都市計画変更の手続きを進めており、2020/02の神戸市都市計画審議会で決定する見込み。兵庫県内の被災地では、新長田駅南を含む6地区で市街地再開発事業、18地区で土地区画整理事業が行政主導で行われたが、震災から25年を経て全て終わることになる。

 神戸市長の久元喜造は震災25年を前にした神戸新聞社のインタビューで「(新長田駅南地区は)市内で最も大きな被害を受けたエリア。当時の市政は最善の判断をしたと思うが、開発の規模や内容について検証し、公表しなければならない」と述べた。全国最大級となった新長田駅南地区の再開発事業について、2020年度に検証を行う方針を明らかにした。

 事業費は計画段階で約2710億円。2007年には地価下落や商業床の売残りで債務残高が313億円に上るとの収支見込みが判明したが、その後の状況は明らかにされず、債務の増大などが懸念されてきた。さらに再開発ビル建設などハード整備が進んだ一方、商店街などは震災前のにぎわいが戻らず、ソフト面の復興が今も課題となっている。

 震災で壊滅的な被害を受けた新長田駅南地区では、発生2カ月後の1995/03に都市計画が決定。神戸市が用地を買い上げ再開発ビルの建設が進められたが、地元との意見調整や土地買収は難航した。2003年に事業が完了する計画だったが、多くの区域で延長が繰り返された。
 計44棟の再開発ビルを建てる計画が順次策定され、これまでに41棟が完成。残る3棟も、兵庫県が医療専門職を養成する兵庫県立総合衛生学院(神戸市長田区海運町)の移転を決めたことなどで2019年、ようやく全棟建設のめどが立った。

 事業対象から外す1区画(約2200m2)は区画内の地権者2人の同意が得られていない。神戸市はこの区画を再開発事業区域から外し、事業を完了させる。
 近年、隣接する駒ケ林中学校からプール整備のための用地を求める声が上がっており、この区画のうち神戸市が保有する土地約1300m2は神戸市教育委員会に移管する。同意が得られていない土地も学校用地としての活用を目指し、地権者と協議を続ける。

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再開発にぎわい戻らず ハード優先、需要見誤る 神戸・新長田 <2020/01/11 06:30 神戸新聞NEXT>を編集

 阪神・淡路大震災から25年を前に、ようやく再開発事業完了の見通しが立った新長田駅南地区。神戸市は高度成長期の都市開発手法をなぞるようにハード整備を優先して早期復興を目指したが、商店街などにかつての活気は戻らず、この間、批判を浴び続けた。人口減少や少子高齢化、経済情勢の変化などにさらされる中で、今も大きな課題を抱えたままだ。

 2020/01上旬の夕刻、新年を迎えた大正筋商店街を行き交う買い物客はまばらだった。商店主は「震災で街は変わり、ネットで買い物をする人も増えた。にぎわいは戻らず、商売は難しくなるばかり」とこぼした。
 かつて商店街や工場、木造住宅が密集していた新長田駅南地区は、震災で壊滅状態に。復興を急ぐ神戸市は、わずか2カ月後の1995/03/17に都市計画を決定した。被害範囲が広く、事業対象も20.1haと広大に。神戸市西部の副都心として住居や商業スペースを再配置するとした。

 戦後、ポートアイランド、六甲アイランド、ニュータウンの大規模開発を次々手掛けた神戸市。拙速と批判を受けながらも打ち出した新長田再開発は、人口増や商業床の需要増による地価上昇を前提としたが、時代は既にバブル崩壊後の低成長期に突入していた。

 神戸市は当初、全ての再開発ビルを自ら建設し、商業床を売却して事業費を賄う狙いだった。だが地権者は約1600人にも上り、買収交渉は難航した。再開発ビルでは神戸市が、従来の商店主らへの賃貸を認めなかったため、多くがローンで床を購入せざるを得なかった。

 神戸市も商業床の売れ行きの悪さから多額の負債を抱え、2008年度以降は再開発ビル建設を民間事業者に委ねた。ただ駅からの距離などで民間が関心を示さない土地もあり、その後も建設は思うように進まなかった。

 計画された全44棟のうち神戸市が建てた23棟では、震災前とほぼ同規模の約5万2000m2の商業床が整備された。2019年末時点で9割が利用されているものの、神戸市が売却できたのは4割。元市幹部で甲南大学名誉教授の高寄昇三(85)は「建設先行型の神戸市は建物を造るのを重視し、街のにぎわいにどうつなげるかの戦略がなかった」と指摘する。

 高層のマンション整備により居住人口は約6000人と、震災前の約1.4倍に増えた一方で、約5000人だった昼間人口は3200人(2006年度)と戻っていない。2019/06には昼間人口増を目指し、兵庫県と神戸市が計約90億円を投じた「新長田合同庁舎」(二葉町5)が完成。職員約1000人が勤務し、年間約30万人の来庁者を見込む。

 神戸市は兵庫県立総合衛生学院の移転も含めた効果で、昼間人口も震災前の水準に回復するとみるが、成果が見えるのはまだ先になりそうだ。大正筋商店街振興組合理事長の今井嘉昭(77)は「合同庁舎の完成後は人通りも増えた。新たな経済効果に期待したい」とする。

【しっかり検証すべき 兵庫県震災復興研究センター事務局長の出口俊一(71)の話】
 再開発の手法に「大規模すぎて時間がかかる」と反対したが、神戸市は規模にこだわった。神戸市は今回、震災25年という節目で事業を終わらせたかったのだろう。
 震災前から神戸市には新長田を西の副都心として再整備する計画があった。右肩上がりの時代に作った計画だが、千載一遇の機会とばかりにそのまま走った。人口減や高齢化などの現状を踏まえておらず、新長田の再開発は「復興災害」だ。商売を続けるため権利床を買わざるを得なかった人たちは、今も高い管理費などに悪戦苦闘している。神戸市は事業費も明らかにしてこなかったが、しっかり検証すべきだ。

【使いこなす手法必要 神戸大学名誉教授で都市計画に詳しい安田丑作(74)の話】
 震災前は木造住宅が密集し土地や権利が細分化していたのを公共の主導で解きほぐすため、神戸市は再開発という手段を選んだ。25年かかったが大仕事であり、最初から見てきた者として完了は感慨深い。
 従前の居住者用の住宅を優先して建てるなど、戻って住むことを可能にした。一方、この四半世紀はネットの発達など、商業環境の変化の加速に重なる。居住人口が戻っても地元で買い物する人は減り、にぎわいを取り戻すのは難しいが、県市の合同庁舎の開庁や県立総合衛生学院の移転は評価できる。器はしっかりしてきたので、それを使いこなす手法が今後必要だ。
神戸市の人口減対策 北西部の6駅周辺を再整備へ <2019/11/19 23:25神戸新聞NEXT>を編集

 神戸市が、人口減少が目立つ神戸市西北部を中心とした6駅周辺を再整備し、民間事業者によるマンション開発など、大規模な人口誘導策に乗り出すことが分かった。
 駅前の再整備が進む西神中央駅(西区)、名谷駅(須磨区)、JR垂水駅(垂水区)の3駅で先行させる。駅周辺の市有地などを活用し民間の住宅開発を促進。バス路線を再編し、郊外の住民らの利便性も高める。

 神戸市長の久元喜造が2019/11/20の就任6年を前に、神戸新聞社のインタビューで明らかにした。
 6駅は他に、谷上駅(北区)、鈴蘭台駅(北区)、JR神戸駅(中央区)。今後さらに増やすとみられる。また、神戸市内約120カ所の全ての駅前空間についても、2年以内に街灯の増設など、何らかの整備に着手する考えも示した。

 総務省の住民基本台帳に基づく人口動態調査では、神戸市に住む日本人は2019/01時点で約148万9820人。前年同期比で6235人減り、減少数は全国ワーストだった。久元は「(都市部の)三宮、元町周辺に高層タワーマンションを林立させるべきでない」とし、建設規制のため、2019/07に関連条例を改正。市内各地の駅前整備などの人口減対策を段階的に打ち出す方針を示していた。

 神戸市が人口誘導を図るのは、周辺にまとまった土地があり、大規模な住宅供給が可能な駅。西神中央駅では区役所や文化・芸術ホールを整備し、名谷駅では駅舎リニューアルや公共施設の再整備を検討。垂水駅では、体育館や学校などの建て替えを計画する。鈴蘭台駅では2018/09に北区役所の新庁舎などが入る駅前の再開発ビルが開業し、周辺の整備が続く。

 神戸市はこうした再整備とともに、市営住宅の再編で生じた一定規模の市有地などを積極的に活用し、民間事業者が駅周辺でマンションを建設しやすいよう規制緩和を進める。一方で市バスやコミュニティーバスの路線などを見直し、郊外の住民らが短時間で駅にアクセスできるようにする。

 インタビューで、久元は「阪神・淡路大震災後、新しい取り組みができず、公共空間が放置されてきた。人口誘導が見込める駅の思い切った再整備で、見違えるようなまちを目指す」と述べた。
“兵庫のチベット”三田はなぜ冷える? 県内最低値の日数は6割超 <2019/2/13 05:30神戸新聞NEXT>を編集

 日々の最低気温が兵庫県内で最も落ち込むと言われる三田市で、梅の花が阪神間に半月ほど遅れて咲き始めている。兵庫県内20カ所に設けられた気象庁の気温観測点で三田が県内最低値を出した日数は、1月、2月(2019/02/11まで)で6割超に上り、インターネット上では「兵庫のチベット」との書き込みも。春の訪れは喜ばしいが、なぜこんなに冷えるのか。調べると、地形や雪、風など多様な条件が重なっているようだ。

 2019/02/11早朝、三田天満神社(天神3)周辺では、梅のつぼみが枝に乗った雪を払うようにしてピンクの花弁を広げていた。その一帯の市街地は屋根や田畑にうっすらと雪が積もり、今年に入って2019/01/26に続く2度目の銀世界となった。

 気象庁によると、2019/02/11の最低気温は未明にマイナス0.9℃を記録。またも県内最低かと思いきや、兎和野高原(香美町)、生野(朝来市)、一宮(宍粟市)に続く4番目だった。

 三田は2019/01/06~19が連続で最低気温が0℃未満となり、2019/01/10はマイナス5.7℃と今季で一番冷え込んだ。多くの日で県内最低値を出し、1月全体を見ると、県内最低を記録しなかった日数は市街地が雪化粧した2019/01/26を含む、わずか9日しかなかった。

 三田の観測点は市街地に近い下深田地区にあり、標高150m。ただし最低気温が標高に比例しているわけではなく、1、2月は多い日で兎和野高原(標高540m)や生野(標高320m)より強い冷気を観測。県内最低値を記録した日数は兎和野高原で計5日、生野で0日となり、三田の22日は群を抜いている。

■人と自然の博物館・加藤茂弘主任に聞く

 肌を刺す朝の冷気で布団を出られない。南国・高知で育った身には、間もなく赴任1年を迎えても三田の寒さが慣れないでいる。

 気象庁の調べでは、2018年の年平均気温は低い地点から兎和野高原(12.3℃)、生野(13.9℃)一宮(14.2℃)などと続き、三田(14.5℃)は5番目で、おおむね標高の高い順。上空に近いと大気圧の低下で気温が下がるため、ある程度うなずける。

 過去の長期観測をまとめた分布地図は分かりやすい。気温の低い青色エリアは三田を起点に、北に丹波高地、東に北摂山系が含まれる。片や、西の丹波市、西脇市は三田に比べて標高が低いため気温は若干高い傾向が見られるわけだ。

 だが、日々の最低気温となると、なぜ三田が突出して低くなるのか。自然地理学を専門とする県立人と自然の博物館主任研究員の加藤茂弘が2つの可能性を示唆してくれた。

 まずは盆地特有の冷え込み。盆地では夜に冷えた空気が底にたまりやすく、それは標高500m以上の山岳が周囲にある三田盆地にも当てはまる。神戸を含む県南部には海からの暖かい空気が広がるが、三田では六甲山系に阻まれて冷気の逃げ場がないという。

 さらに雪の影響も。冬型の気圧配置で日本海側から流れ込む寒気は、北部の山岳で雪を降らせた後、水分を失った冷たい空っ風として南に吹き付ける。

 「雪があると水分で暖まりやすいから、豊岡は三田ほど寒くない」と加藤氏。なるほど、だから三田も雪の日は寒気のランキングが落ちる傾向にあるのか。

 神戸地方気象台によると、2019/01/18ごろから移動性高気圧が兵庫県を覆って気温は平年を上回る見通し。三田も3月上旬まで暖かい日が続くという。もうすぐ春本番。心が少し躍り始めた。

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三田の寒さ、チベット似の地形影響? 空っ風に「ゾクッ」 <2019/02/19 05:30神戸新聞NEXT
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 兵庫県内で最低気温が最も落ち込む三田の謎を2019/02/13付の三田版で紹介し、「兵庫のチベット」というネット上の書き込みを記事で拝借したところ、SNSを中心に予想外の反響が寄せられた。「呼び名は『関西のシベリア』の方がなじみがある」「関西のチベットは高野山(和歌山)だ」…。確かに似た呼称が付けられた土地は全国にあるが、地形や気温はどれほど違うのだろう。

 「三田は個人的にシベリアよりチベットの方がしっくりきますね」。そう語るのは、地理学を専門とする京都大学教授の水野一晴(61)だ。理由はやはりその地形と標高にあるという。

 人口100万人を超える西シベリアのオムスク。気象庁の1月平均最低気温を見るとマイナス19.2℃で、三田とは比べものにならない。ただ、その要因は北極から遮る山がなく、開け放しの寒気にさらされるのが特徴。日本で例えるなら…と札幌を挙げた。

 一方で、チベットの中心都市ラサは平均最低気温がマイナス8.5℃。こちらも圧倒的に寒いが、標高3000m以上にあって南北を山脈で囲まれ、空っ風が吹きすさぶ点は、確かに三田と少し似ているかも。「盆地と呼ぶには広すぎる高原地帯だが、地形的に共通点がある。海外の地名を国内に結び付ける風潮は、どうかとも思いますけど…」

 とはいえTwitterなどを検索すると、「岩手は日本のチベット」で「高野山は関西のチベット」。「札幌は日本のシベリア」で「八王子は東京のシベリア」と似たような書き込みは後を絶たない。

 では、実際に1月各日の最低気温を比べてみるとどうか。高野山は三田より若干冷え込み、八王子は三田よりやや暖かい日が多いが、観測された冷気の差は少ない。寒冷地と言われる盛岡、札幌はやはり圧倒的だ。それでも盛岡で計10日、札幌では2019/02/03も三田の方が冷え込んでおり、三田盆地に吹き付ける空っ風の恐ろしさを垣間見た。

 記事を書きながら何度もゾクッ-。春が待ち遠しい。
アコヤガイが謎の大量死 世界的な真珠の集散地・神戸に不安広がる
2019.10.26
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大量死の被害が出ているアコヤガイ=8月、愛媛県愛南町
大量死の被害が出ているアコヤガイ=8月、愛媛県愛南町

神戸で行われている真珠の選別・加工作業。アコヤガイの大量死で神戸の真珠業界にも影響する恐れが出ている=神戸市内
神戸で行われている真珠の選別・加工作業。アコヤガイの大量死で神戸の真珠業界にも影響する恐れが出ている=神戸市内

 真珠の養殖に使うアコヤガイが今夏、大量死し、世界的な真珠の集散地である神戸の加工・卸会社に不安が広がっている。流通量が減少すれば、価格上昇や販売機会のロスが生じ影響は計り知れない。大量死の原因は判明しておらず、11月の採取シーズン入りを前に、業界は警戒を強めている。(中務庸子)

 アコヤガイは、人工交配などで育てた稚貝を海に入れ、1年半ほど養殖し、母貝に育てる。その後、養殖業者らが母貝に「核」と呼ばれる貝殻片を入れてさらに1年半ほど海中で育て、11月~翌年2月ごろに真珠を採取する。

 アコヤガイの大量死は、真珠の三大産地である愛媛、長崎、三重の各県で相次いで見つかった。最大産地の愛媛県では8月初めごろから被害が表面化。大半の養殖業者で養殖中の貝の5~9割が被害に遭ったという。餌の減少や海水温の低下が原因の可能性があるが、特定はできていない。

 関係者によると、今季に水揚げされる真珠の被害は軽微とみられるが、来季用に核を入れる母貝や再来季用の稚貝が大量死しており、来季以降の水揚げが激減する恐れがあるという。

 「今季の原珠は昨季より10~15%は値上がりするだろう。中小企業にはこたえる」。神戸市中央区の真珠加工業者の男性は頭を抱える。真珠の水揚げ量は養殖業者の高齢化などを背景に、この15年で30%減っており、昨季も約15%値上がり。「急激な価格転嫁は難しい。自社で吸収するしかない」とこぼす。

 別の神戸の業者は「値上がりした真珠を仕入れる経営体力はないので、在庫でしのぐしかない。対策が取られるまで安心できない」と嘆く。

 日本真珠輸出組合(神戸市中央区)は、主要な販売先の中国では価格を引き上げることができるとみるが、「水揚げがなくなれば機会ロスは免れない」という。

 一方、神戸の海でもアコヤガイの大量死が起こっている。2年前から実験的に育てているすまうら水産有限責任事業組合(神戸市須磨区)では8月中旬、ほぼ全ての貝が死んだ。関係者は「数年前から船底に付くフジツボが減るなど海の様子が変わった」と訴える。

 業界大手の大月真珠(神戸市中央区)は毎年、同市兵庫区の兵庫運河で小学生の環境学習として養殖を手掛けるが、ここでも今夏は全滅。担当者は「自然相手で予測はできないが、早く被害が落ち着いてほしい」と話している。

【神戸の真珠産業】三重、愛媛、長崎などの真珠養殖場と近く、世界的な貿易港があるため、大正期から加工業が発達した。関連業者は220社に上り、大きさや形、色などで選別し、ネックレス用に穴を開けるなどした半製品や、指輪などの完成品を宝飾業者などに卸している。六甲山の緑に反射する自然光が選別に適しているといわれ、世界で流通する海水産真珠の70%が神戸に集まる。このうち2割が国内で消費され、8割が輸出されている。

校門圧死、いじめメモ隠蔽、教員暴行。神戸市教委は屑だらけ。

2019/04/01付 人事異動:高津橋小校長(前任:東須磨小校長)芝本力 ←前校長
2018/04/01付 人事異動:退職 東須磨小校長 藤原高広 ←前々校長

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2019/11/1 00:40神戸新聞NEXT

加害4教員の給与差し止め 東須磨小問題 審査会では異論
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神戸市教育委員会が入るビル=神戸市中央区東川崎町1
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神戸市教育委員会が入るビル=神戸市中央区東川崎町1
 神戸市立東須磨小学校(同市須磨区)の教員間暴行・暴言問題で、神戸市教育委員会は31日、加害教員4人を「分限休職処分」とし、同日から給与を差し止めたと発表した。同日午前に開いた臨時の教育委員会会議で決定。これに先立ち、市教委が諮問した有識者による職員分限懲戒審査会は「処分は不相当」との結論を出していたが、同会議は妥当と判断した。

 今回の問題では加害教員4人に、「自宅謹慎」の代わりに有給休暇を取らせていることに市民らから批判が殺到。4人の給与差し止めを念頭に、職員を分限休職処分にした上で差し止めることを可能にする改正条例が30日に公布、施行された。これを受け、31日に非公開の審査会が開かれた。

 市教委によると、審査会は、同処分の要件の一つ「起訴される恐れがあると認められる職員」について、「現段階では(4人とも)起訴される蓋然(がいぜん)性(確実性の度合い)が高いとまでは言えない」と判断。教育委員会会議でも「4人の非違(非法・違法)行為に軽重がある」として一括した処分などに慎重な意見が相次いだが、最終的には全会一致で決定したという。

 市教委の後藤徹也教育次長は「子どもや保護者らへの影響が極めて甚大。さまざまな解釈や意見はあるが、総合的に熟議を重ねた上での結論だ」と強調した。


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東須磨小学校の前校長 現勤務校から市教委付へ <2019/10/30 05:00神戸新聞NEXT>を編集

 神戸市立東須磨小学校の教員間暴行・暴言問題で、体調不良を理由に休んでいる前校長を市教委付とし、現在の勤務校に新たな校長を赴任させる方向で神戸市教委が検討していることが2019/10/29、関係者への取材で分かった。

 前校長を巡っては、東須磨小の教頭だった2017年度、現在療養中の男性教員(25)に飲み会への参加を強要し、後に「パワハラと言われても仕方ない」と話したことが判明。さらに2018年度には、別の教員から加害教員4人について「(男性教員への)ふざけが度を過ぎている」との訴えを受けながら、具体的な追及をせず、市教委にも報告していないなど、消極的な対応が明らかになっている。

 前校長は問題発覚後に現在の勤務校を休み、保護者に「12月末まで診療が必要と診断された」との説明文書を配布。現在は教頭が校長の職務代理を務めている。

 関係者によると、異動は2019/11/01付。ハラスメントを調べる外部調査委員会の聴取などもあり、市教委は前校長の早期復帰は難しく、このままでは学校運営に支障が出ると判断したとみられる。

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緊急報告 東須磨小教員暴行【下】神戸方式 <2019/10/26 10:00神戸新聞NEXT>を編集

 加害教員4人のうち、主導的な立場だった30代の男性教員は「神戸方式」で前々校長が引っ張った。

 神戸市立東須磨小学校の教員間暴行・暴言問題で、複数の関係者はそう証言する。羽交い締めで激辛カレーを食べさせる。車の上に乗る。各メディアで繰り返し流れた動画や画像に写る、あの男性教員だ。

 東須磨小は2017年、人権教育を推進する指定校になっていた。モデル授業や指導法の研究を行い、成果を発信する役割を担う。実はこれに向けて呼ばれたのが先の教員。神戸市の小学校教員でつくる「人権教育部会」のセミナーに積極的に参加していたからだ。

 校長が意中の教員を「引っ張れる」。それを可能にしたのが、半世紀以上も連綿と続いた独自の人事ルール「神戸方式」だった。

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 仕組みはこうだ。

 毎年冬になると、異動対象者の氏名や年齢、住所、勤務希望区などが一覧になったリストが各校長の元に届く。小学校の場合は20枚ほど、計数百人分という。

 校長はまず自校の異動対象を確認し、続いて後任の人材を選択。在籍校の校長とその教員に面談を申し込み、受け入れられれば市教育委員会に届け出る。ただし、教員には最大9年まで同一校に勤務することが認められており、異動の提案を何度でも拒否できる。

 校長側にとっては、学校の現状に応じて必要な人材を集めやすくなる。教員側にとっては校長に選ばれることで意欲が高まり、介護や子育てといった事情にも柔軟に対応できる。

 神戸方式が長く温存された背景にはこうしたメリットがある。だが、本来の人事権者である市教委は事実上、かやの外。学校を知るパイプは自然と校長に限られ、ときとして市教委は情報から隔絶される。

 実際、市教委が東須磨小の問題を詳しく把握したのは、被害教員側から相談を受けた9月。くしくもこのときには、数年の議論を経て神戸方式の廃止がほぼ決まっていた。

 「本当に中核教員だった」。東須磨小校長の仁王美貴(55)は2019/10/09の会見で、主導した30代の男性教員をこう評した。

 異例の配置がそれを物語る。特に重要とされる6年の担任を4年連続で任され、いじめ対策も担当。その理由を神戸方式による前々校長の威光が働いたとみる関係者は多い。いつしか先輩教員への呼び捨てが始まり、周囲には加害仲間が集まっていた。

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 「改革すればするほど、現場との距離感が開く」。2019/10/17の神戸市総合教育会議。神戸市教委幹部からは現場との溝の深さをうかがわせる発言が相次いだ。市長の久元喜造は、会見で校長が何度も「教育委員会さん」と呼んだことに「赤の他人のようだ」と指摘。教育行政の支援担当課を市長部局に置くことを決めた。
 早速ある校長は反発する。「不祥事をだしに校長の裁量を狭めようとしている」

 信頼は地に落ちた。足並みがそろわなければ、回復の道筋を描くのは難しい。

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緊急報告 東須磨小教員暴行【上】職場環境 <2019/10/25 05:00神戸新聞NEXT>を編集

 神戸市立東須磨小学校の教員間暴行・暴言問題は、発覚から3週間。取材で新たに浮かび上がったのは、被害に遭った男性教員(25)への嫌がらせが赴任1年目には始まっていたことだった。加害教員4人の行為はエスカレートする一方だったが、当時の校長が深刻に受け止めた様子はかけらもない。それどころか、「いじめられてないよな」と決めつけるような発言すらあったという。ハラスメントが許され、SOSは封じられる。そんな異様な土壌の実態も次第に明らかになりつつある。

 「激辛カレーを強要」「はげ、ボケ、ダボなどの暴言を吐く」「書類を投げて渡す」「椅子をける」

 2019/10/17の神戸市議会常任委員会。配布資料には加害教員4人の行為がずらりと列記され、「極めて悪質」なセクハラもあった。

 被害を受けたのは男女2人ずつの若手教員で、療養に追い込まれた男性(25)は教師3年目だった。当初、神戸市教委は嫌がらせの始まりを2018年としていたが、実は2017年、つまり新人として赴任したその年から続いていた。

 先輩を見習おうと授業見学をお願いしたときのことだ。「来るな、教室が汚れる」。加害教員の一人はそう言い放った。それだけではない。この年の夏ごろ、アルコールが苦手で懇親会を欠席したいと申し出ると、当時教頭だった前校長は「新人なら行くべきだ」と強要した。

 2018年度に入ると、ハラスメントは一気に深刻化した。宴席の際、ビール瓶で頭を殴られる。熱湯入りのやかんを顔につけられる。車に灰皿の水をまかれる。ズボンを破られる。

 今のところ背景に見えているのは、以前の職場が同じだった前校長と加害教員の1人が特に親しかったこと。そして「神戸方式」と呼ばれる全国でも極めて特異な教員人事システムが50年も続いてきたことだ。

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 「いびつな人間関係の土壌を管理職がつくっていた」。東須磨小勤務経験者はそう指摘する。例えば互いの呼び方だ。通常、校内では年齢に関係なく「○○先生」と呼び合う。しかし、前校長は同僚の一部を呼び捨てにした。さらに加害教員の一人は、先輩をも呼び捨てにした。

 前校長は2018年度、この呼び捨てについては1度注意した。3学期には一部の教員から「(被害教員への)ふざけの度が過ぎている」と訴えがあり、加害教員4人を個別に指導したとする。だが、具体的な内容には踏み込んでいない。

 同じ頃、被害教員は前校長に嫌がらせについて尋ねられた。当時のやりとりを、弁護士にこう証言している。

 前校長「お前ぶっちゃけ(加害教員のことを)どう思ってるん?」
 被害教員「お世話になってます」
 前校長「そうやんな。じゃ、お前はいじめられてないんやんな」

 一方的にSOSを封じ込めるかのような言い回し。後任の校長 仁王美貴(55)にも引き継がれてはいない。ただし、前校長は市教委にこのやりとりを否定している。

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 2019/10/16、2度目の保護者会。校長が子どもたちの様子を説明した。

 連日の報道が続く中、加害教員、被害教員が担任していた学級の子どもたちが心境を紙に書く時間が設けられた。言葉にならず絵で表現した子どももいれば、書いたものをビリビリに破く児童もいた。別室で号泣するケースもあれば、起きたことが信じられず「(加害者は)先生じゃない」とつづったものもあった。

 学校には苦情電話が殺到し、住民らが展開する地域活動も延期を余儀なくされている。前代未聞の不祥事が引き起こした激震は、いまだ収まっていない。

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加害教員の自主退職認めず「厳正に処分」 神戸・教員暴行 <2019/10/22 06:00神戸新聞NEXT>

 神戸市立東須磨小学校の教員間暴行・暴言問題で、市教育委員会は2019/10/21までに、加害教員4人が処分前に自主退職を申し出た場合、認めない方針を決めた。「自主退職で身分がなくなれば、処分を下せなくなる」として事前に手を打った。
 市教委によると、処分を受ける前に退職した場合は退職金が支給される上、神戸市以外の自治体で教員採用試験を受ける際、志願書に懲罰歴が載らないという。市教委は「厳正に処分しなければ、市民の理解は得られない」としている。

 一方、2019/04に東須磨小から異動した前校長が、現在勤務する小学校の児童の保護者らに「12月末まで療養が必要と医療機関に診断された」と説明する文書を配布していたことが、市教委への取材で分かった。前校長は問題発覚後、体調不良を理由に休んでおり、教頭が職務を代行している。

 前校長は東須磨小教頭だった2017年、採用1年目の男性教員に飲み会参加を強要したほか、その後の加害教員による度重なる嫌がらせ行為を市教委に報告していなかった。市教委が設けた調査委員会は前校長にも聞き取りをし、管理責任を検証する考えを示している。

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2019/10/9 19:50神戸新聞NEXT

東須磨小・教員間暴力 会見速報 「4人中2人は前校長と親しい関係」

 神戸市立東須磨小学校の教員間暴行・暴言問題で、同市教育委員会は2019/10/09 17時、市役所で会見を始めた。

 市教委幹部2人と同小校長の計3人が出席し、冒頭で「このたびのハラスメント事案で児童、保護者をはじめ、関係者に多大なる心配をおかけし、心よりおわび申し上げます」とあらためて陳謝した。

 同小の校長仁王美貴は具体的なハラスメントの内容について、体をたたく、足を踏むなどの暴力▽性的な内容を含む人格を否定するような言動▽所有物の器物損壊などの嫌がらせ-などを挙げ、「学校内やプライベートの場で長期にわたっていた」と説明した。

 その上で「教員として、人として許されるべきではなく、東須磨小の子どもの前では今後、指導させない」と話した。

 校長は、ハラスメント事案を知った時期について「(今年)7月初旬」とし、それから聞き取り調査を始めたと話した。

 校長は「加害教諭と被害教諭は2018年度までは良好な関係にあったが、加害教諭が被害教諭のプライベートなことを他の教員に話したことがきっかけに疎遠になった」と説明した。

 校長は、6月20日に市教委の訪問を受けた際、校内の人間関係について「心配がある」と伝えたところ、市教委側から「力になる」と言われたことを説明。市教委はこれまで、校長から「指導で解決した」との報告があったと説明していたが、校長は「指導したことは報告したが『解決した』とは言っていない」と否定した。

 一方で、「私のハラスメント行為に対する認識が甘かった」とも認め、「被害教員に申し訳ない」「被害教諭が私たちに訴えたのは、こういう行為をなくして職員室が過ごしやすい場所になってほしいという思いがあったと思う」と述べた。

 校長は2018年度に東須磨小に教頭として赴任しており、この当初から教員間の人間関係について違和感があったと説明。例として、職員を呼び捨てにすることがあったことを挙げ「中には職員の言葉で傷つく職員もいたし、心を痛める職員もいた。その職員の話を聞きながらともに職員室で過ごしていて、職員間の関係が気になっていたので、(ハラスメント行為に気付くことが)全くなかったことはないと思う」と話した。

 また、前任の校長の態度を問われ「校長ですので厳しい指導もあった。その厳しさが適切かどうかといえば、適切でない部分もあったかもしれない。すべて適切かというと自信を持って言えない」と話した。

 報道陣から隠ぺいする意図の有無を問われ「6月20日の市教委の訪問時は気になっているという話もしたし、教員の名前も挙げて伝えていた。これから指導するということも伝えていたので、隠すつもりは一切なかった」とした。一方で「中身をしっかり伝えなかったことが、被害教員が学校に来られなくなったことが原因になったと思っている」と自身の責任も認めた。

 校長によると、加害教員の一人は動機について「自分がおもしろければよかった。被害者がそんなに嫌がっているようには思えなかった。悪ふざけがすぎていた」と説明したという。

 校長は加害教員4人のうち二人は、2018年度と19年度のいじめ対策の担当であることを明らかにした。

 加害教諭の処分については、市教委の担当者が「このような教員が教壇に立つことが許されるのかという厳しい意見が多数寄せられている。ご指摘を踏まえて今後対応を検討したい」と話した。

 校長は児童たちに、加害教員4人について「やってはいけないことをやった。なので東須磨小で教えることはできないと判断しました、と説明した」と述べた。

 児童たちの様子については「大きく傷ついたことは同じだった。その日は一つ部屋を設け『苦しくなったり、泣きたくなったりしたら来てもいいよ』と言った。その部屋の中で1日、ワンワン泣いた子もいた」と話した。

 校長は、7月初旬に加害教員を指導した後、具体的な内容を市教委に報告しなかった理由について「指導する中で『もう絶対にしません』という態度だったので、自分が職員室で仕事をする中で改善できるかなというのをずっと見ていこうという気持ちはあった」としつつ、「なぜ具体的に言わなかったのかは、うまく言葉で説明することが難しい」と話した。

 加害教諭と前の校長との関係について、「4人のうち2人は(前校長と)親しい関係だったと思っている」とした。一方、この2人は校内で中核教員だったが「そこでの力と前校長の力が関係しているかは分からない」と述べた。

 また「昨年度しんどくなった教員の中には、前校長と意見が合わなかった教員はいる」と明かした。

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2019/10/9 12:17神戸新聞NEXT

東須磨小前校長もパワハラか 暴行被害教員を叱責 神戸

 神戸市立東須磨小学校(同市須磨区)の教員間暴行・暴言問題で、同小の前校長を巡っても「パワハラを繰り返している」という趣旨の相談が市の内部相談窓口などに寄せられていたことが9日、関係者への取材で分かった。市教育委員会は既にこの前校長からも聞き取りを始めており、一連の問題に対する関与や対応についても調べる。

 前校長は2016年に教頭として東須磨小に赴任し、18年春に昇任。19年春に別の小学校へ転任した。

 パワハラについては、複数の関係者が神戸新聞の取材に証言。それによると、前校長は今回被害に遭った20代の男性教員(療養中)に対し「女性と遊ぶ暇があったら一人前になれ」などと職員室で叱責したこともあったという。関係者の一人は前校長について「教員の好き嫌いが激しかった」と話した。

 市の窓口に相談があったのは、前校長が昇任する前の18年1~2月ごろ。現場の教員に対し「裏切ったらどうなるか分かるやろ。完全に切る。だから誰についたらいいか分かるやろ」といった発言があったことが報告されていた。市教委によると、この相談内容がどのように扱われたかは「調査中」という。

 一連の問題では、前校長が昇任した2018年に、30~40代の教員4人が後輩に当たる若手4人に暴力や暴言を繰り返していたことが判明。尻が腫れるまでたたかれたり、激辛ラーメンを目にこすりつけられたりした被害教員もいた。

 市教委は9日午後に会見を開く予定で、東須磨小の現校長も出席する。

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2019/10/4 17:52神戸新聞NEXT

送迎を強要、足踏みつけ、セクハラ… 加害の4人は有給休暇 教員間暴力、神戸市教委が会見

 神戸市須磨区の市立東須磨小学校の20代男性教員が、昨年以降、同僚の先輩教員4人からいじめ行為を受けていた問題で、神戸市教育委員会が4日、市役所で会見を開いた。

 主なやりとりは次の通り。

 「2018年ごろから東須磨小学校の教員間において、身体的な暴力や暴言、性的ないやがらせなどを内容とするハラスメント行為が行われていたことが判明した。児童・保護者をはじめとする市民の皆さまの信頼を著しく失墜する行為で、心からおわび申し上げる。加害者は複数名で、ハラスメント行為の態様に個人差はあるものの、学級担任など当該校の業務から外すことにする。学校運営に支障を来さないよう、10月7日から新しい教員を配置する」

 -ハラスメント行為の具体的な中身について。

 「女性教員に対して性的な内容を含むメッセージを送信するよう強制する。携帯電話にいたずらし、ロックをかけて使えなくする。被害教員所有の車の上に乗る。車を蹴る。車内で故意に飲み物をこぼす。人格を否定するような呼称で呼び掛ける。拡大コピー用紙の芯でお尻を殴る。背中を肘でグリグリと押す。足を踏みつける。それから、他の教員へのハラスメント行為として、人格を否定するような呼称で呼び掛ける行為や、女性教員へのセクハラ行為があった」

 -激辛カレーを食べさせたり、目にこすりつけたりすることもあった?

 「激辛カレーの件については現在調査中。無理やり食べさせられた、体にカレーを付けられたという訴えは聞いている」

 -「他の教員」というのは何人?

 「現在、把握している被害者は、20代の男性教員以外に3人。全て20代で、男性1人、女性2人」

 -他の教員へのハラスメントを具体的に。

 「男性教員のことをポンコツの意味で『ポンちゃん』と呼んでいた。女性教員へのセクハラは、被害者のプライバシーにも関わるので詳細は控えたい。セクハラは加害教員4人のうち、男性教員2人からあったことが分かっている」

 -加害教員の年代と性別は。

 「30代男性が3人、40代女性が1人」

 -市教委は、他の教員への人格否定やセクハラをいつ把握したのか。

 「9月に調査を行い、その中で事実をつかんだ」

 -加害教員は担任を持っていたのか?

 「担任を持っていた者も含まれる」

 -加害者側の反省の弁などは。

 「反省はしているということだが、はっきりとした事情聴取を行えているわけではないので控えたい」

 -加害教員の普段の勤務態度について。

 「東須磨(小学校)では中心となる人物、リーダーとなるような教員だったと聞いている」

 -加害教員の現在の身分は。

 「籍としては、東須磨小に残った形」

 -広報資料のハラスメント行為の内容に「送迎・飲食などの強要」とあるが。

 「送迎は被害教員がまだ仕事があるにも関わらず、『(加害教員の)自宅まで車で送ってくれ』と。飲食は昨年度、『飲め、飲め』とお酒を無理やり飲まされたということだ」

 -被害教員の体や車にどういう被害が出たか。

 「車の被害は確認できていないが、コピー用紙の芯でお尻を殴られた時は、ミミズ腫れが生じたということだ」

 -学校が問題を把握したのは6月。学校の聞き取りでどこまで分かって、どこまで市教委に報告が上がっていたのか。

 「学校の方では、『車の上に乗られた』とか『たたいてくる』などのハラスメント行為の訴えがあった。市教委に対して具体的な内容は知らされず、『教員間でトラブルがありました』という報告はあった」

 -『トラブルがあった』というだけの報告をどう考える。

 「校長の責任も含め、事実関係を明らかにした上で厳正な対応をしていきたい」

 -これだけの内容で、6月よりも前から周りの先生がこの事態を知らなかったというのは考えにくいのでは。

 「中には一部、暴力的なことが行われているとみていた先生方もいる。今後、ほかの先生の事情も確認していきたい」

 -9月に入って被害教員が休んでいる。それまで学校としてどんな対応を?

 「学校は被害教員に寄り添う形で、『大丈夫か』など声かけをして、できるだけ校長が職員室にいる時間を増やしていたということだ」

 -加害教員4人に対しては。

 「『(被害教員と)距離を置くように』という指示をしていたようだが、学校からの指導後も、被害教員に対する暴言があったようだ。校長は全体の職員会で『ハラスメント行為はしてはいけない』と指導を行った」

 -今月から加害教員4人が休んでいる理由は。

 「こちら(市教委)の方からある程度の事実が確認できたので、東須磨小学校に勤務させるのは適当ではないと判断をした」

 -実質、謹慎ということか。

 「自宅謹慎という制度はなく、制度上は有給休暇を取らせている状況。(加害教員)本人から体調不良という申し立てはあるが、教壇には立てないということも含み置きのことだ」

 -(学校から市教委に報告があった)7月の段階で被害者本人に聞き取りなどはしていなかったのか。

 「していない。学校側も『(トラブルは)もう収まっている』という認識だったので」

 -東須磨小の教員数は。

 「30人強というところだ」

 -教員30人強のうち、4人が被害者で4人が加害者。学校の中でいじめる側といじめられる側があったということでは。

 「集団で、という部分もあったようだが、普段は(加害教員)4人がばらばらで被害教員に対してハラスメント行為をしていたと考えている」

 -集団で行われた行為はどれか。

 「カレーを無理やり食べさせる行為」

 -これらのハラスメントは学校内で行われていたことか。

 「学校内で行われていたものと学校外で行われていたものがある」

 -学校内で行われたものはどれとどれ。

 「『ハゲ』『ボケ』『カス』など、人格を否定するような呼称で呼び掛ける行為。コピー用紙の芯でお尻を殴る行為。背中を肘でグリグリと押しつける行為。足を踏みつける行為。これらは学校で行われていたことを確認できている」

 -現在休んでいる被害教員は、職場復帰についてどう考えているのか。

 「できるだけ早く復帰したいという意向を聞いている。いち早く復帰できるよう全力で支援していきたい」

 -加害教員は、基本的に東須磨小に復帰することはない?

 「はい」

 -子どもたちに対して、「いじめは駄目」「いじめを見過ごしては駄目」と言うべき先生がいじめをしていた。市教委としての受け止めは。

 「こういった事態は前代未聞のことだと考えている。深刻に受け止め、今後、どういうハラスメント行為が行われていたか十分調査をし、今後の再発防止につなげていきたい」

2019/9/18 05:30神戸新聞NEXT

丹生山周辺にあった山城とは 県内300超の城を測量した男性に聞く

 「北マンスリー 街道を行く」の特集「山田の郷を訪ねて」で、丹生山(神戸市北区山田町)を取り上げたところ、額縁職人で、中世城郭研究家の木内内則(72)から情報が寄せられた。山を登り続けて50年以上になる木内は、メジャーを片手にこれまで300を超える県内の城の測量を実施。それを基に城の測量図を作り、本にまとめてきた。丹生山周辺にあった山城について聞いた。

 時は南北朝時代。後醍醐天皇らの南朝方と足利尊氏らの北朝方に分かれての戦いが約60年続いた。丹生山が、戦いの舞台となるのはその初期の1336年だ。

 新田義貞の一族で南朝方の金谷経氏が丹生山頂にあった明要寺で挙兵し、立てこもった。周囲には複数の金谷側の城が作られ、この山を取り囲むように、北朝方の播磨国守護赤松円心が複数の城を構えたという。この戦いの詳細は不明だが、その後、赤松氏は東播磨や西摂津地域に勢力を拡大していった。

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 木内さんは、額縁職人として働き始めたばかりのころ、古本屋で江戸時代の播磨地域の地誌『播磨鑑』に偶然出合った。城への記述が目に入り、正しいのか調査を始めたという。

 木内さんは「まず城の角を見つけることが重要」と力を込める。山を歩き、真っすぐ削り込まれている場所を探す。角を発見すると、次に対の角を見つけるという。「額縁を作るにはどうやって四角にするかを計算する。本業の知見が役立った」と笑う。調査したメモを基に測量図を作成する。「大規模な城でも3時間あれば書ける」と胸を張る。

 約20あった丹生山周辺の城も史料などを基に測量。「石垣などはなく、小さな土の城だったことが特徴」と木内さん。「旗を立て、お互いが監視するための場所だったのでは」と推測する。

 城のほとんどが「寺院のそばにあった」事にも注目する。丹生山城(金谷側)は明要寺。多々部城(赤松側、中央区神戸港地方)は大龍寺。聖岡城(赤松側、北区淡河町神影)は石峯寺などだ。

 大きな領地と商業権を持っていた当時の寺院。「寺院の一角を借りて城にし、大部分の兵士は寺にいたのではないか。当時の状況から寺院の協力がなければ戦いをする事は困難だった」と説明する。

 明石や姫路と違い、城の印象が薄い神戸。木内さんは「城の部首は土。石垣がない小さな城は神戸にも多くあった。城を探し続けるために、まだまだ山を登り続けたい」と意気込む。

スポーツやBBQ、天空温泉… 多彩な施設で楽しんで 神戸・北区のホテル
2019/9/15 05:30神戸新聞NEXT

 昼は里山の豊かな自然を満喫。夜は多くの星が輝く空を眺める。運が良ければ眼下に雲海を見ることができる日も。みのたにグリーンスポーツホテル(神戸市北区山田町原野)。甲子園球場8.5個分の約33万m2の敷地には、テニスコート9面、野球場などがあり、美肌効果があるとされる温泉も人気を集める。未整備エリアにバーベキュー施設を造ったり、畑を整備したりする「谷上天空プロジェクト」が2019/08にスタート。山田の郷の新たなランドマークとして注目される。

 「10万坪の大自然をみんなで開拓!」をキャッチフレーズに、プロジェクトを手掛けるのは、北区で地方創生事業を行う「レストレーション」経営の森脇暉(28)。ホテルとコラボし、ステーキやシーフードが楽しめるバーベキュー施設をオープンさせた。今後は荒野を開拓し、オーガニックの野菜を育てる畑などを作っていく計画を練る。

 2019/09末まで100万円を目標にインターネットで資金を募るクラウドファンディングを実施中で、2019/09/13現在、99万円が集まった。達成できれば、大自然を生かした釣り堀やカブトムシの飼育場の整備、完成披露パーティーの資金に充てる予定だ。

 森脇は「谷上や箕谷を愛する地域の人や、ホテルの利用客らと意見を出し合い、自分たちの『あったらいいな』を実現できる場所にできれば」と力を込める。

 プロジェクト名にもあるように、前面に打ち出すのは「天空」。標高280mに建つホテルからは、山田の郷が一望できる。また、ラジウム・ラドンと呼ばれる珍しい泉質で、美肌効果があるとされる「銀河の湯」では、冬場の早朝、露天風呂から雲海が見られることもあるといい、「天空温泉」とも呼ばれている。

 船員保険総合福祉センターとして1971年に開業した同ホテル。豊富なスポーツ施設を一般に開放し、再出発した2015年以降、兵庫県内外の学生やスポーツ団体など利用者の裾野は広がった。周囲の山へのトレッキングに出掛ける宿泊者も増えている。土俵も整備し、4年前から日本相撲協会の尾上部屋が春場所(3月、大阪)の宿舎として利用するようになった。

 ホテルマネジャーの乙間久穂(45)は「都心から近く、日帰りでも利用できるアクセスの良さが強み。大自然、スポーツ、バーべキュー…。それぞれの過ごし方を楽しんで」と話す。
2019/9/14 05:30神戸新聞NEXT

現存する日本最古の民家 神戸市北区の「箱木千年家」
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国指定重要文化財の「箱木千年家」を守る箱木眞人さん=神戸市北区山田町衝原
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国指定重要文化財の「箱木千年家」を守る箱木眞人さん=神戸市北区山田町衝原
当主の箱木眞人さん(左手前)の説明を聞く海外の茅葺き職人たち
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当主の箱木眞人さん(左手前)の説明を聞く海外の茅葺き職人たち
【上】下谷上農村歌舞伎舞台【中】上谷上農村歌舞伎舞台【下】小河農村歌舞伎舞台(いずれも神戸市提供)
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【上】下谷上農村歌舞伎舞台【中】上谷上農村歌舞伎舞台【下】小河農村歌舞伎舞台(いずれも神戸市提供)
 神戸電鉄箕谷駅から、市バス111系統に揺られ、神戸市北区山田町の西端、衝原へ。お目当ては、現存する日本最古の民家「箱木千年家」(国指定重要文化財)だ。兵庫県三木市との市境に広がるつくはら湖の湖畔にあり、高さ約8メートルの入り母屋造りと重厚な茅葺き屋根は壮観だ。(村上晃宏)

 建築年代を巡っては諸説ある。箱木家に残る文書には平安初期の「806年上棟」と記される。一方で専門家らによると、現在の建築様式は室町時代と推定されるという。

 「家系図をひもとくと、藤原鎌足のひ孫に行き着く」と話してくれたのは、第51代当主の箱木眞人さん(87)。江戸初期に「古くからある」との意味を持つ「千年家」の屋号をもらった記録が残るという。

 屋内は静寂とひんやりとした空気に包まれ、床や戸板はちょうなで削った木材の質感が残る。鉄のように硬い柱や土間のかまどなど、時代の風雪に耐えてきた重みを体感できる。

 実はこの集落、呑吐ダム建設に伴い水没し、千年家も1977年、現在の場所に移転を余儀なくされた。移転前の住宅で育った箱木さんは「冬は寒いし、屋根のふき替えも大変」と振り返りつつ、「まさか国の文化財に指定されるとは」と目を細める。

 今年5月には世界茅葺き会議で来日した7カ国の職人が千年家を視察。「重ねた年月を感じさせない美しさだ」と驚嘆し、茅葺き技術や文化財保全などを学んだ。箱木さんは「乾燥しやすい土地と良質の水が長持ちの秘けつ」と説明しながらも「家の隅々に先祖の苦労がしのばれる。文化財を守り続ける大変さも一緒に共有したい」と話した。

   □   □

 市バス111系統の終着点・衝原から折り返し、新神戸トンネル近くのバス停「小橋」から徒歩5分。“重文銀座”9つ目のお宝は、江戸時代に建てられた「下谷上農村歌舞伎舞台」だ。花道の一部が180度回転し、反り橋が現れる仕掛けは全国でも例のない本格的な歌舞伎舞台とされ、国の重要有形民俗文化財となっている。

 山田の郷にある13の集落は、それぞれに歌舞伎舞台があって、今でもこの下谷上をはじめ、少なくとも7カ所が残っている。「農民が農閑期などに自ら演じる文化が江戸時代に広まった」と山田民俗文化保存会副会長の新田嘉己さん(73)。「演じ手不足で途絶えた時期もあったが、最近は住民有志らが再興や保存に取り組み始めた。特に子どもらの熱演は素晴らしい。この郷に残る伝統をいつの世にも継承していきたい」と力を込めた。
2019/9/27 01:36
関電会長ら6人に1億8千万円 元高浜町助役から、原発マネーか
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 福井県高浜町の元助役森山栄治氏
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 福井県高浜町の元助役森山栄治氏
 関西電力の八木誠会長(69)、正副社長ら役員6人が2017年までの7年間に、関電高浜原発が立地する福井県高浜町の元助役(3月に死亡)から、計約1億8千万円の資金を受け取っていたことが、金沢国税局の税務調査で分かった。複数の関係者が26日までの共同通信の取材に明らかにした。

 元助役は資金提供について「お世話になっているから」と説明しており、工事費として立地地域に流れた「原発マネー」が経営陣個人に還流した可能性がある。

 関電広報室は26日夜、「一時的に各個人の管理下で保管していたものはあるが、儀礼の範囲内以外のものは既に返却を完了した」とコメントした。
現存する日本最古の民家 神戸市北区の「箱木千年家」 2019/9/14 05:30神戸新聞NEXT

 神戸電鉄箕谷駅から、市バス111系統に揺られ、神戸市北区山田町の西端、衝原へ。お目当ては、現存する日本最古の民家「箱木千年家」(国指定重要文化財)だ。三木市との市境に広がるつくはら湖の湖畔にあり、高さ約8mの入り母屋造りと重厚な茅葺き屋根は壮観だ。

 建築年代を巡っては諸説ある。箱木家に残る文書には平安初期の「806年上棟」と記される。一方で専門家らによると、現在の建築様式は室町時代と推定されるという。

 「家系図をひもとくと、藤原鎌足の曾孫に行き着く」と話してくれたのは、第51代当主の箱木眞人(87)。江戸初期に「古くからある」との意味を持つ「千年家」の屋号をもらった記録が残るという。

 屋内は静寂とひんやりとした空気に包まれ、床や戸板は手斧(ちょうな)で削った木材の質感が残る。鉄のように硬い柱や土間のかまどなど、時代の風雪に耐えてきた重みを体感できる。

 実はこの集落、呑吐ダム建設に伴い水没し、千年家も1977年、現在の場所に移転を余儀なくされた。移転前の住宅で育った箱木さんは「冬は寒いし、屋根のふき替えも大変」と振り返りつつ、「まさか国の文化財に指定されるとは」と目を細める。

 2019/05には世界茅葺き会議で来日した7カ国の職人が千年家を視察。「重ねた年月を感じさせない美しさだ」と驚嘆し、茅葺き技術や文化財保全などを学んだ。箱木さんは「乾燥しやすい土地と良質の水が長持ちの秘けつ」と説明しながらも「家の隅々に先祖の苦労がしのばれる。文化財を守り続ける大変さも一緒に共有したい」と話した。

   □   □

 市バス111系統の終着点・衝原から折り返し、新神戸トンネル近くのバス停「小橋」から徒歩5分。重文銀座9つ目のお宝は、江戸時代に建てられた「下谷上農村歌舞伎舞台」だ。花道の一部が180度回転し、反り橋が現れる仕掛けは全国でも例のない本格的な歌舞伎舞台とされ、国の重要有形民俗文化財となっている。

 山田の郷にある13の集落は、それぞれに歌舞伎舞台があって、今でもこの下谷上をはじめ、少なくとも7カ所が残っている。「農民が農閑期などに自ら演じる文化が江戸時代に広まった」と山田民俗文化保存会副会長の新田嘉己(73)。「演じ手不足で途絶えた時期もあったが、最近は住民有志らが再興や保存に取り組み始めた。特に子どもらの熱演は素晴らしい。この郷に残る伝統をいつの世にも継承していきたい」と力を込めた。

貴重な神仏混合の姿をとどめる社寺 神戸市北区の六條八幡宮 2019/9/12 05:30神戸新聞NEXT

 丹生・帝釈山系と六甲山系に囲まれた山田の郷。古くから播州と北摂、京を結ぶ交通の要所として栄え、都から第一級の文化が伝えられた。戦争や自然災害の被害からも免れ、この地域だけで、計9つの重要文化財(国指定)と重要有形民俗文化財(同)が集積する、まさしく“重文銀座”だ。まずは、「丹生の山田」の総鎮守社である六條八幡宮(神戸市北区山田町中)と、聖徳太子が建立したと伝わる無動寺(神戸市北区福地)、隣接する若王子神社(神戸市北区福地)を訪ねた。

 白衣、袴に花笠をかぶった「小刀祢」と呼ばれる射手が、疾走する馬の上から的を射抜く「流鏑馬神事」。毎年10月の第2日曜日に六條八幡宮で繰り広げられる伝統行事だ。六條八幡宮は源頼朝の祖父・為義が1123年に再興したとされ、流鏑馬は市内唯一の神事として、市無形民俗文化財にもなっている。

 珍しいと言えば…。境内を見渡すと室町時代中期に建てられた三重塔(国重要文化財)がそびえる。

 「神社に仏教建築?」

 明治政府の神仏分離令以降、神仏混合の姿をとどめる社寺は激減し、現在では全国で18カ所、県内では3カ所のみという。

 宮司の畠田明彦(57)は「軒先の強い反りや、上層になるほど小さくなる建築様式に当時の特徴が現れている」と説明する。

   □   □

 六條八幡宮から北東に歩いて約1km。淡河町へと続く国道428号近くの山の中腹にある無動寺へ向かった。

 参道は美しいコケに覆われ、住職らが暮らす庫裡は、農村の原風景ともいえる茅葺き屋根だ。その中で、重厚感のある本堂が風格を放つ。住職の久保泰明(72)は「寺は盛衰を経ながら、地域に支えられてきました」と語る。

 無動寺は飛鳥時代、聖徳太子が戦での勝利を願って建立した普救寺(福寺)が起こりとされる。江戸時代に編まれた縁起によれば、現在の本堂は1752年に山田町(旧山田村)出身の高僧、眞源阿闍梨が再建したものという。「帰省の折、寺の荒廃を目にして再建を決意し、寄進を募ったそうです」。

 大日如来座像、釈迦如来座像、阿弥陀如来座像、不動明王座像、十一面観音立像と5体もの仏像が国の重要文化財に指定されている。阿弥陀如来座像(県指定重要文化財)を加え、計6体が本堂奥の収蔵庫(奥殿)に安置され、ガラス越しに拝観できる。
 ひときわ目を引くのは大日如来座像だ。座像ながら約2.8mと巨大で、久保住職は「他寺の仏様と比べても、若々しくエネルギッシュな表情」と胸を張る。
 前列中央は約80cmの不動明王。右手には魔物を退散させる降魔の剣を、左手には悪を縛り上げる「羂索」と呼ばれる縄を携え、大きく見開いた眼に力がある。気品ある表情の十一面観音や量感たっぷりの釈迦如来など、一体一体の個性に引き込まれる。
 久保住職は「訪れた人は『元気をもらった』と喜んで帰られますわ」と笑顔を見せる。

 無動寺の境内にある若王子神社の社殿も国の重要文化財だ。三間社流造で、屋根に堅板葺を残しているのは珍しく貴重だという。

 中世から連なるゆったりとした時の流れに心身をほぐされ、穏やかな気持ちで社寺を後にした。
2019/9/11 05:30神戸新聞NEXT

神戸市のストリートピアノ 陸海空の玄関口にそろう
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8月に設置された神戸空港のストリートピアノ。海と滑走路が見える=神戸市中央区
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8月に設置された神戸空港のストリートピアノ。海と滑走路が見える=神戸市中央区
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 街角で誰もが自由に弾いていい「ストリートピアノ」の普及に神戸市が力を入れている。常設は6カ所となり、新幹線駅▽港▽空港-に置いたことから、担当者は「神戸の『陸海空』の玄関口にそろった」と胸を張る。学校などで使われなくなった市の備品を活用しており、「今後も適切な置き場所があれば増やしていきたい」とする。(上杉順子)

 今年1~2月、JR神戸駅の地下街「デュオこうべ」に試験設置したのが始まり。評判がよく、3月下旬から常設とし、4~7月にかけて駅や駅前ビルなど3カ所にさらに整備した。8月にはクルーズ客船が着岸するポートターミナルや、神戸空港にも登場させた。

 三宮や新開地、名谷に一時置いたこともあり、今月7日からは神戸電鉄岡場駅の商業施設「エコール・リラ」に、実験的にグランドピアノを設置している。

 利用頻度に関するデータは取っていないが、人通りが多いデュオ神戸などはよく演奏されている印象があるという。同所で本設置時に楽器の上に置いた、感想などを書き込むノートは4冊目に入った。

 「当初はピアノに落書きされたら、壊されたら、と心配したが、どの場所でも特に問題が起きていないのがうれしい」と、市街地整備課の担当者。演奏を譲り合ったり、互いに拍手したりと、秩序が自然と保たれているようだという。「クロスを持参して磨いてくれる人がいる。ノートが終わりかけたら新品を置いてくれた人も。世の中、捨てたもんじゃないですね」

 今後は季節や催事に応じた企画も考えている。来月12日に県立美術館(同市中央区)で開幕する展覧会「ショパン-200年の肖像」(神戸新聞社など主催)に合わせ、会期中は全ての常設ピアノのそばに日本初公開のショパン自筆の楽譜の複写を置き、それを見て演奏できるようにする予定。

常設のストリートピアノの設置場所、元の場所
デュオ神戸浜の手 デュオドーム……本山第三小学校(東灘区)
ベルスト鈴蘭台 3Fすずらん広場……木津幼稚園(2018/03閉園、西区押部谷町木津)
JR新神戸駅 改札外……本山第三小学校(東灘区)
地下鉄西神中央駅 改札内……名谷あおぞら幼稚園(2018/03閉園、須磨区菅の台4)
ポートターミナル……名谷こすもす幼稚園(2019/03閉園、須磨区西落合7)
神戸空港 3Fイートインスペース……清風幼稚園(2019/03閉園、中央区中山手通7)

試験的
エコールリラ(岡場)
メイン六甲(六甲道)
灘区民ホール
神戸サウナ(三宮)
六甲アイランド
2019/9/10 05:30神戸新聞NEXT

標高500メートルに井戸? 神戸市北区の丹生山
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ふもとから眺めた丹生山=神戸市北区山田町坂本
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ふもとから眺めた丹生山=神戸市北区山田町坂本
田園地帯にぽつんとたつ丹上神社の鳥居=神戸市北区山田町東下
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田園地帯にぽつんとたつ丹上神社の鳥居=神戸市北区山田町東下
参道に建立される「丁石」。平清盛が月詣りを行う際の目印にしたと伝わる=丹生山
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参道に建立される「丁石」。平清盛が月詣りを行う際の目印にしたと伝わる=丹生山
約500メートルの山頂付近にある井戸=丹生山
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約500メートルの山頂付近にある井戸=丹生山
山頂にある丹生神社の鳥居=丹生山
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山頂にある丹生神社の鳥居=丹生山
 「北マンスリー 街道を行く」。シリーズの冒頭で、神戸市北区山田町(旧山田村)が13の字から構成されていること、約93キロ平方メートルに及ぶ広大な面積は、同区のおよそ4割、神戸市の6分の1を占めることなどを紹介した。旧山田村の中でも、有馬街道の皆森交差点から兵庫県三木市に向かう県道神戸加東線沿いの地域は、古くから摂津国と播磨国を結ぶ裏街道として多くの人々が往来し、豊かな地域文化が育まれてきた。ここからは「山田の郷を訪ねて」と題し、この地に残る遺構や歴史に名を刻む偉人たちの足跡をたどってみたい。(千葉翔大)

 神戸市北区山田町東下。丹生山(標高515メートル)のふもとに広がる田園地帯にぽつんと鳥居が立つ。「丹生神社」と記されるが、周囲に社殿らしき建物は見当たらない。坂本で生まれ育ち、山田民俗文化保存会副会長の新田嘉己さん(73)を訪ねた。

 「神社は丹生山の頂上にあります。すぐそばには、平清盛が再興したとされる明要寺がありました。神社はその総鎮守社です」

 南を六甲山系、北を約14キロに及ぶ丹生・帝釈山系に囲まれた同地域。その昔、神功皇后が行啓した故事から「丹生の山田」と呼ばれ、上質酒米「山田錦」のルーツともいわれる。

 新田さんによると、6世紀中ごろ、古代朝鮮の百済から訪れた王家の子孫らが丹生山を開山し、明要寺を建立したという。その後、1180年に福原(兵庫区)に都を移した清盛が同寺を再興し、比叡山に見立てて信仰したと伝えられる。羽柴秀吉の焼き打ちに遭うまでの約400年間、武士や僧侶らが生活していたという。

 「一度、見てみますか? 時間あるので一緒に登りますよ」と新田さん。

 「真夏」「30度」「徒歩で往復1時間」「汗だく」…。“しんどさ指数”が次々と頭をよぎり、即答できない私に、思わぬ提案が。

 「(坂本側から)2つの登山路があってね。ハイカーが使う『表参道』と、丹生神社の祭りの際、必要な物品を運ぶ『裏参道』。裏ルートなら軽トラックで行けるよ」

 なんと車で登山とは!

 一瞬、驚いたが、何の迷いもなく、新田さんの軽トラの助手席に座っていた。

   □   □

 頂上までの道幅はかなり狭く、凹凸のある山道が続く。上り始めて間もなく、道の脇に高さ120センチほどの石が等間隔で並んでいるのに気づく。

 「あれは何ですか?」

 新田さんに尋ねると「丁石と呼ばれる、登山の目印にするための石です」と教えてくれた。清盛が明要寺に「月詣り」するために建立したとされており、ふもとから山頂までの間に、25個の丁石が、約100メートル間隔で立つ。

 ヘアピンカーブやぬかるみなど、数々の難所を克服し上へ、上へ。あとわずかで山頂という時、軽トラックは裏参道をはずれ小道へ。「不思議なものをお見せしましょう」と新田さんが指さす視線の先には、約10メートル四方の井戸があった。

 「ここは標高約500メートル。こんな高い場所で井戸水があるなんて不思議でしょう」と新田さん。「この水があったからこそ、明要寺で僧侶たちが暮らせ、西の比叡山として栄えたのでしょう」と推測する。

 出発からおよそ20分。ようやく山頂に到着。「丹生山城 丹生山明要寺跡」と刻まれた石碑が出迎えてくれた。“山頂の鳥居”をくぐり、いよいよ丹生神社に足を踏み入れた。

2019/9/11 05:30神戸新聞NEXT

平清盛が再興“西の比叡山”明要寺跡を訪ねて 神戸・北区の丹生山
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宝物庫に展示される「明要寺参詣曼荼羅図」
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宝物庫に展示される「明要寺参詣曼荼羅図」
丹生神社へ向かう表参道にある「丹生山橋」
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丹生神社へ向かう表参道にある「丹生山橋」
丹生山城や明要寺が建立されたことを記す石碑
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丹生山城や明要寺が建立されたことを記す石碑
神社境内にある土俵
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神社境内にある土俵
丹生神社から眼下に広がる北区の住宅街
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丹生神社から眼下に広がる北区の住宅街
 丹生山(神戸市北区)を西の比叡山に見立て、平清盛が明要寺を再興したのは、福原遷都(1180年)とほぼ同時期。当時、絶頂期を迎えていた清盛が、どんな思いでこの地に、この寺を奉ったのか。その後、訪れる平家の終焉を微塵も感じていなかったのだろうか。跡地に立つ石碑を眺めながら、さまざまな想像をめぐらした。(千葉翔大)

 「この上が丹生神社です」。同行してもらった山田民俗文化保存会副会長の新田嘉己さん(73)と坂道を上り切ると、社殿があり、南方向には、北区の住宅街が広がっていた。

 「毎年5月のこどもの日になると、ここで『奉納相撲』が行われています」

 夏草が生え茂っているが、確かに土俵がある。この地域は、江戸時代から相撲が盛んで、昔は地元の青年団が奉納相撲を取っていた。最近は、小学生らに受け継がれる。

 山田郷土誌の中にも、神社の境内などで開く「宮相撲」の記述が残り、勝てば、力自慢の称号を与えられていたようだ。

    □  □

 帰りは自力で下山することに。来た時の「裏参道」ではなく、「表参道」を進むことを選択した。

 「20分程度で下りられると思います」。新田さんはこう言い残し、軽トラックで山頂を後にした。

 地面には落ち葉や木々の枝が転がり、ゴツゴツとした岩肌も見える。前日の雨で表面が湿っていて、少しでも気を抜くと滑ってしまいそうだ。清盛が約100メートル間隔に置いた計25の「丁石」をたどりながらふもとへ。上から4番目の「四丁石」から先は、石の階段が現れる。段差が激しく、最大で40センチ以上あった。ここまで来ると、下山し始めたころの余裕はなくなっていた。額からは大きな汗の粒が滴り落ちた。道は左右に弧を描くように曲がる。途中からは同じ道を何度も通ったような感覚に陥ってしまう。

 弱音を吐きそうになった時、眼下に橋が架かっているのが目に入った。緑のツタが絡まり、かなりの年季だ。左右に取り付けられた柱には、右側に「丹生山橋」、左側には「昭和十六年八月」とある。その隣には「延命地蔵尊」と書かれた石仏が立っていた。この地蔵を目印に、表と裏の参道が分かれている。

 そこに新田さんの軽トラックが止まっていた。「少し掛かったね」と缶コーヒーを手渡してくれた。手元の時計に目をやると出発から30分を過ぎていた。

    □  □

 無事、下山すると、サプライズが待っていた。毎年、こどもの日にしか開かない宝物庫があり、特別に中を見せてもらえるという。

 中は20畳ほどの広さでY字型に区切られ、市指定有形文化財にも選ばれた「明要寺参詣曼荼羅図」が展示される。「平清盛が寄贈した」とも伝えられている。このほか、丹生山を焼き打ちにした羽柴秀吉の関連資料もあった。

 「こんなにも歴史を感じることができるとは…」と感心していると、新田さんは静かに口を開いた。

 「山田の郷は、まだまだこんなもんじゃない」
既に3人骨折 神戸市の小中学校「組み体操」 <2019/9/10 19:20神戸新聞NEXT>を編集

 2019秋の運動会・体育大会で組み体操を行う神戸市立小中学校92校のうち14校で、練習中に児童や生徒が病院を受診する事故が起き、3人が骨折、3人が脱臼や捻挫をしていたことが2019/09/10分かった。神戸市教育委員会は2019/09/09に実施校の数などを発表したが、練習中の怪我は明かしていなかった。神戸市長の久元喜造が2019/09/09夕、事故の報告を受けたとTwitterに記し「(市教委は)何を対応していたのか?」と批判。2019/09/10になって神戸市教委が怪我について公表した。

 組体操を巡っては2019/08、久元が危険な場合の実施見合わせを神戸市教委に要請。神戸市教委は「練習を始めている」などとして中止にせず、安全と判断した場合のみ行うよう各校に指示した。
 神戸市教委によると、2019/09/09までに14人の児童・生徒が受診。最も重い怪我は左手首を骨折した中学3年の男子生徒で全治1カ月という。再発防止策を指導するが、「組体操の取りやめは聞いていない」としている。

 久元は2019/09/09にTwitterで「(市教委や校長、教諭らは)やめる勇気を持って下さい」と投稿。2019/09/10も「市長には(禁止の)権限がない」「働きかけ続けるしかない」などとつづった。

将来は登録文化財? 横に動くエレベーター 神戸 <2019/9/2 05:30神戸新聞NEXT>を編集

 神戸電鉄有馬線の車窓からのどかな風景を眺めていると、山の斜面をはうように並ぶ銀色パイプが見えた。「あれは何?」。もしかして、某テレビ局のナニコレ珍百景にエントリーできそうな素材では! 「次は、花山」。車内アナウンスが流れる。気になったら調べるのが記者のさが。途中下車し、近づいてみると、その正体は-。何と「日本初の○○」だった。

 神鉄花山駅(神戸市北区花山台)で下車すると、多くの人が南東方向に歩き出す。志染川に架かる橋を渡り切ると、「花山東団地」と記された看板が。どうやら、山の上には都市再生機構(UR)が管理するマンション群があるようだ。

 銀色のパイプのたもとにたどり着く。先についた住民女性が、ホールの壁に設置されたボタンを押す。近づくと、左右にエレベーター2基を発見した。

 「花山東グリーンエレベーター(愛称スカイレーター)」。説明には「URが屋外に設置した第1号-」とある。女性と一緒に乗り込むと、上下ではなく、斜めに動き出した。「え? 横向き?」と驚いていると、女性が「山の上まで歩くのしんどいから、斜行エレベーターがついてるねん」と教えてくれた。
 ボタンは「上」「下」の二つのみ。天井下にはつり棒が設置されており、「満員電車のようになれば、棒をつかんでバランスを取るのかしら」と思いを巡らせた。
 約40秒で「上」に到着。ロープウエーさながらの絶景(?)を楽しんだ。ちなみに、階段を上ってみると、私の足で2分半程度。息は切れ切れになった。

 設置者のUR西日本支社に取材すると、団地自体は1970年代後半に開発されたが、エレベーターは1984年に設置された。全長約62mで、高低差は約27m。担当者によると、「われわれが誇る日本で初めての斜行エレベーターです」。

 インターネット上では、「乗り鉄」ならぬ、「乗り斜行エレベーター」と呼ばれる愛好家たちが、「スカイレーターは、近い将来の登録文化財候補ではないだろうか」とブログで絶賛しているのも見つけた。

 山に沿う銀色の2本パイプは実は、住民の生活を支える縁の下の力持ちで、日本最古の斜行エレベーターだった。
六麓荘だけじゃない 神戸の「ビバリーヒルズ」潜入 神戸柏尾台 <2019/08/29 05:30 神戸新聞NEXT>を編集

 1区画当たりの敷地面積の平均は約500m2(約150坪)。まちは美しく清掃され、街路樹の手入れも行き届いている。1日2回、管理員が巡回し、地区内に設置された計7台の防犯カメラが、不審者に目を光らせる。新神戸トンネルの箕谷ランプ近くに広がる神戸市北区柏尾台。いつしか人はこのまちを「北区のビバリーヒルズ」と呼ぶようになった。どんな豪邸が建ち、どんな人が暮らしているのか。早速、調査を始めた。

 柏尾台は1980年に東京の不動産会社が中心となって開発し、1993年から分譲が始まった。当時の本紙記事には土地建物価格(平均)1億円前後とある。
 「やはり、億ションやったんや」
 取材をしようと自治会を探すが見当たらない。調べると「管理組合法人」なるものが存在した。理事長の中元勝子さん(71)に話を聞いた。
 「ここには自治会はないの。住人が管理組合(通称・柏尾台六甲倶楽部)を法人化させて、管理会社に住宅街を管理してもらっているのよ」
-どんな人が暮らしているのでしょう?
 「医者や会社経営者などが多いわね。昔に比べ、土地の値段が下がったので、最近は若い世代も入ってきてるの」
 まちを巡ると高級外車が数台並ぶガレージや青々と芝がまぶしい庭園を備えた豪邸が並ぶ。教会のような西洋風の建物や近代的な造りの住宅なども目に入る。
 さらに驚くのは、まちの中心部にある六甲倶楽部のクラブハウスだ。組合員が会合を行う会議室のほか、トレーニングマシンを設置したジムスペース、テニスコートなども併設されている。住人の同倶楽部への加入は原則義務とされ、入居時にクラブハウスの修繕積立金などとして120万円を支払う。そのほか毎月徴収される組合費約1万4000円は、管理会社への委託料金などに充てている。
 「高いでしょ。でも料金がかかる分、住宅街の清掃とかも住人はやらなくていいの」と中元理事長。また、回覧板もなく、住民で共有すべき情報は管理会社から各戸に知らされる。

    □  □

 それではお待たせしました。豪邸訪問でーす!
 西洋の城のようなとがった屋根が特徴の男性(71)宅。東京で自営業を営んでいたが、数年前に引退。その後、学生時代を過ごした神戸に戻ってきたという。「友達も多いので関西で探していたところ理想的な住宅を見つけられた。トンネルもあるので三宮に飲みに行ってもすぐに帰れるところもいい」と太鼓判を押す。芝生が整備された庭には、喫煙専用のあずまや、屋内には愛犬専用の部屋を設けるなどのこだわりだ。

 また、元船長の男性(78)宅は、バラや桜などあらゆる植物を栽培する約190m2の庭園が特徴。「趣味の園芸を楽しめる」と満足げだ。

    □  □

 一方で、空き地も点在する。神戸市によると、2019/05末時点で、全187区画中、住宅が建っているのは91区画(92世帯、226人)にとどまる。

 「あなたも転入なさる?」と中元さん。

 「僕にはとても」。こう答えながらも、セレブになった自分を想像し、ビバリーヒルズを歩いてみた。

2019/8/27 05:30神戸新聞NEXT

海のない神戸・北区に波の音? その正体は…
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山中に設けられた人工サーフィン施設=神戸市北区山田町原野
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山中に設けられた人工サーフィン施設=神戸市北区山田町原野
「マシンウエーブ」に乗るサーファー=神戸市北区山田町原野
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「マシンウエーブ」に乗るサーファー=神戸市北区山田町原野
 山あいに響く波の音。神戸市北区に海はないはずだが…。音の方向をたどると、突然、山間部にぽっかりと池が現れた。その周辺には、真っ黒に日焼けした半裸の男性らが。

 波の音の正体は人工サーフィン施設「KOBE-REYES(コウベレイーズ)」=同市北区山田町原野。三宮から車で約20分(新神戸トンネル経由)。市街地からすぐに行けるサーフスポットとして2016年にオープンした。

 縦120メートル、横60メートルの屋外プールに、波を発生させる装置があり、高さ1メートル前後の波をつくる。中央から左右に崩れるきれいな波が特徴だ。

 「一度にプールに入れる人数には制限がありますが、何回でも乗れるので初心者の練習にも格好の場所」と施設を運営する「レスポンスエンジニア」広報担当の小林建道さん(36)はPRする。

 通常、海で行うサーフィンでは、波の頂上付近に、多くのサーファーが集まるという。「当然、うまい人、体力のある人らがいい波を独占してしまう」。また、自然界では「同じ波は来ない」と言われ、小林さんは「マシンウエーブだと、ほぼ全て同じ大きさと形の波が起こせ、自分の技術が分かりやすい」と太鼓判を押す。(西竹唯太朗)

2019/8/27 05:30神戸新聞NEXT

冬は寒いが景色は最高 標高390mにある神戸甲北高校
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兵庫県内の公立高校で標高が1番の神戸甲北高校=神戸市北区大脇台
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兵庫県内の公立高校で標高が1番の神戸甲北高校=神戸市北区大脇台
校舎4階からの眺め=神戸市北区大脇台
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校舎4階からの眺め=神戸市北区大脇台
 「関西の軽井沢」。鈴蘭台(神戸市北区)がこう呼ばれたゆえんはその標高にある。取材を続ける中、ある光景に遭遇した。それは神戸電鉄北鈴蘭台駅から“登山”いや“登校”する神戸甲北高校(同市北区大脇台、全校生徒714人)の生徒の姿だ。

 その標高を調べると、兵庫県姫路市の書写山(約370メートル)よりも高い約390メートル。「もしや…」と思い調べると、案の定、県内の公立高校で1番だ。

 同校の辻真吾教頭(52)は「山の上なので、校舎が霧やかすみに覆われることがあり、麓の人からは、雲の中に立つように見えると言われます」と話す。校舎の4階まで上ると標高400メートルを超えるという。

 1番なのは標高だけじゃない。同校は兵庫県で初めて総合学科を設立。韓国語やインドネシア語などのアジアの言語から、栄養や福祉などの専門分野まで、生徒一人一人が目標を持って授業を選択することができる。

 同校2年の男子生徒(17)は「冬は痛いぐらいの寒さだけと、校舎から見える夕景は最高。進路について、先生が親身になって考えてくれるので魅力の多い学校です」と笑顔で話した。(喜田美咲)

2019/8/28 05:30神戸新聞NEXT

「港都・神戸」発展に寄与 世界60カ国の外国人ら眠る再度山
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近代神戸を彩った人物が眠る外国人墓地=北区山田町下谷上
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近代神戸を彩った人物が眠る外国人墓地=北区山田町下谷上
幕末の堺事件で亡くなったフランス水兵も眠る=北区山田町下谷上
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幕末の堺事件で亡くなったフランス水兵も眠る=北区山田町下谷上
船のかじを模した墓碑=北区山田町下谷上
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船のかじを模した墓碑=北区山田町下谷上
墓地のそばには、空海ゆかりの場所もある=北区山田町下谷上
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墓地のそばには、空海ゆかりの場所もある=北区山田町下谷上
 「港都・神戸」をつくり、そして支えた多くの外国人たちが眠る市立外国人墓地(神戸市北区山田町下谷上)。六甲山系・再度山の北側にあり、東京ドームほぼ3個分に当たる14ヘクタールほどの広大な敷地に世界約60カ国、約2900人の墓が並ぶ。北野・異人館や三宮・旧居留地以上に「異国情緒を放っている」と感じるのは私だけだろうか。墓地の前に立ち、静かに手を合わせる。夏の暑さを和らげる風が頬をなでる。港都の発展に寄与した先人たちの歩みに思いをはせた。(長沢伸一)

 J・マーシャル(英・初代神戸港長)

 E・タルカット(米・神戸女学院創立者)

 E・H・ハンター(英・日立造船所の前身を創設)

 F・D・モロゾフ(露・洋菓子職人)

 R・G・スミス(英・博物学者)

 W・R・ランバス(米・関西学院創立者)

 E・B・クラーク(英・日本ラグビーの父)

 A・C・シム(英・18番ラムネの発明)

 H・フロインドリーブ(独・パン職人)

 J・C・ウィルキンソン(英・天然の炭酸鉱泉を発見)

 墓に刻まれたそうそうたる名前に圧倒される。

 墓地を管理する市森林整備事務所の栗山明久所長(56)が、「神戸港開港前に居留地についての取り決めがあり、墓地を用意する約束が決められました」と説明してくれた。

 1960年代半ばごろまでは墓地への立ち入りが自由だったが、現在は遺族らに限定。2006年度からは4~11月の毎月第4日曜日に、ガイドが同行する見学会を開いている。07年には国の名勝指定を受けた。最近は新しい墓ができることはほとんどないが、今でも遺族など年間約2千人が訪れるという。

 国別の墓数をみると、英国、米国、ドイツの順。おおむね、キリスト、ユダヤ、イスラム、ヒンズーなど宗教ごとにエリア分けされ、墓石の形状は多種多様だ。中でも強烈だったのはゾロアスター教の墓だった。「拝火教」の名の通り、燃え盛る炎のシンボルがあしらわれていた。また、船のかじや本などの墓碑も目を引いた。

 「実はこの場所、ある日本の歴史的人物とゆかりが深いんです」と栗山さん。聞くと「弘法大師空海が中国の唐に渡る直前と、帰国直後に訪れたとされています。この逸話からここは再度山となったんです」。

 空海の故事から名前がついた再度山にある外国人墓地。栗山さんは「まさに和洋折衷の神戸らしい場所では。神戸の歴史を知るために大切な場所です」と口にした。

【神戸市の外国人墓地】神戸港開港に先立つ1867(慶応3)年、神戸沖に停泊中の英米艦船から乗組員4人の死者が出たため、小野浜(現・中央区浜辺通)に埋葬したことが始まり。開港後、居留地の発展とともに埋葬者が増えた。99(明治32)年には春日野(同区籠池通)も造成され、その後の急速な市街化で現在の場所に移された。

「やはり、メジャー」神戸市北区山田町ってどんな町? <2019/8/15 05:30神戸新聞NEXT>を編集



 全国に約82万人(12位)、兵庫県に約3.2万人(県内10位)いるとされる「山田さん」。それでは山田町(村)あるいは山田という自治体や町村、地名はどれくらい存在するのだろうか? 
 ネットで検索してみると「全国に約2千カ所」と記載するサイトもある。「やはり、メジャーだ」。北マンスリー最初のミッションは「神戸市北区山田町」がどんな町なのかを明らかにすること。取材を続けていくといくつもの「へぇー」に出合った。

■神戸市の約1/6

 南は六甲山系、北は帝釈・丹生山系に囲まれた山田町。1889(明治22年)の町村制施行により、上谷上、下谷上、原野、福地、中、東下、西下、衝原、小河、坂本、藍那、小部、与左衛門新田の13の村が集まり、八部郡山田村が誕生した。その後、武庫郡から神戸市兵庫区へと編入を重ね、1973(昭和48)年に神戸市北区となった。

 神戸電鉄沿いに開発された住宅街は、鈴蘭台東、西、南、北町、惣山町、筑紫が丘、広陵町、北五葉、星和台、しあわせの村、などの住所名に変更されているが、大半は山田町の大字名として、その名をとどめている。

 驚くのは旧山田村の広さだ。約93km2に及び、神戸市北区の約40%、神戸市全体の約1/6を占める。旧山田村だけで、灘、中央、兵庫、長田の4区を合わせた面積を上回る。

■重文“銀座”

 山田川(志染川)流域を東西に走る県道神戸加東線は、山陽道の裏街道として第一級の文化が流れ込んだと言われている。
 詳細は2019/08下旬ごろ、特集「山田の郷を訪ねて」で掲載するが、日本最古の民家の一つとされる箱木千年家(衝原)、六條八幡宮(中)の三重の塔、無動寺(福地)の大日如来座像など5体、若王子神社(福地)の社殿が国の重要文化財に指定されている。また、下谷上農村歌舞伎舞台(下谷上)は国指定重要有形民俗文化財となっている。
かつては命がけの険路 有馬街道の昔の地名を調査 <2019/8/14 05:30神戸新聞NEXT>を編集

 「街道を行く」。その名の通り、神戸市北区の“大動脈”である有馬街道を北へ、北へと歩を進める。
 まずは起点、終点からおさらいしたい。皆森交差点(神戸市北区山田町)まで重複する国道428号の起点(神戸市中央区)が「有馬道」のため、混同しやすいが、現在、一般的に有馬街道と呼ばれているのは兵庫県道15号神戸三田線。神戸市兵庫区平野町を起点に日下部交差点(神戸市北区道場町)までだ。ただ、有馬街道をネット検索すると「神戸・大阪から有馬温泉に至るまでの街道の名称」と表示され、この神戸三田線を含め、主に4つのルートを指すという。

 「昔は車はおろか、歩くのも難しい険路だったと聞く」。山田民俗文化保存会会長の宮脇三明(75)が口を開く。
 現在の神戸三田線は、「天王谷越え」と呼ばれ、その道幅はわずか6尺(1.8m)ほどだった。さらに険しくなる箇所もあり、川を飛び石伝いに何度も渡らなければ、通れない難所も数多くあったという。

 沿道の交差点には、その名残を感じさせる昔の地名標識や看板が並ぶ。
 小部トンネルを抜けてすぐの交差点で標識を見上げると、「水呑」の文字が。「険しい山道を越えてきた旅人が喉を潤したという伝承からこの名が付きました」と宮脇。ここは、旅人同士が産物を交換し合う場所としても栄えたという。
 続く交差点の「二軒茶屋」には、昭和初期まで2軒の茶屋があったといい、再び険路に入る前に休憩した場所とされる。
 小部峠を越えると、一転、下り坂。その道中には現在の町名にまったくなかったり、字名にしか登場しなかったりする標識がある。
 「大正坊」=平安期以降、この地に宿坊があったことが由来だという。1500年代後期に、播州征伐で三木城主の別所長治を豊臣秀吉の軍が攻めた際に焼かれた。
 「皆森」=平安期、源義経勢が一ノ谷に向かう際、村人らが軍勢「皆」に飯を「盛って」もてなした。のちに「盛」が「森」になったと伝わる。
 「芝床」=“芝”は台地を削って最初に集落が築かれた場所
-などの伝承が残るという。

 阪神高速北神戸線の箕谷JCTを越え、旧山田村の東端が近づいてきた。有馬へはまだまだ遠い。湯治に商売、理由は数あれど、命がけでこの道を越えた先人たちに思いを寄せた。
2019/8/11 05:30神戸新聞NEXT

特区シリーズ第6弾は「北区」 有馬街道を北上し魅力探る

 海風を背に市街地から有馬街道を越えて、あるいは新神戸、六甲山トンネルを抜けて六甲連山の北側に出ると、「港町・神戸」とはまったく違った神戸に出合う。

 約240km2と神戸市内最大、神戸市全体の4割超の面積を占める神戸市北区には、現在、約21.2万人が暮らしている。
 主要幹線に沿うように住宅街が広がり、日本三古湯の一つ有馬温泉には年間約176万人が訪れる。日本一の酒米と称される山田錦の栽培面積は339.64haに上る。

 遊びにも事欠かない。
 ロッククライミングの聖地「百丈岩」(道場町)や六甲山森林植物園(山田町)、あいな里山公園(山田町)など自然と触れ合うスポットのほか、パブリックコースを含め、11のゴルフ場が集まる。

 山田村(武庫郡)、有馬町、有野村、道場村、八多村、大沢村、長尾村(有馬郡)、淡河村(美嚢郡)が、戦後の1947~1958年にかけ兵庫区に編入され、1973年に兵庫区から分区して北区が誕生した。今春には北神支所が北神区役所に昇格した。

 平清盛、源義経、豊臣秀吉など、数多くの歴史上の偉人たちがたどったとされる道が今も残る神戸市北区。神戸版特区シリーズ第6弾は「北マンスリー 街道を行く」と題し、大動脈である有馬街道を北へ、北へと歩きながら、交通の結節点として発展を遂げたまちの歴史や豊かな自然の中で生きる人々の暮らしぶりを追う。
民間会社に移籍の高橋政代氏 理研退職の理由語る <神戸新聞NEXT 2019/8/5 21:50>を編集

 理化学研究所で人工多能性幹細胞(iPS細胞)から作製した網膜細胞を移植する世界初の臨床研究に取り組み、2019/07/31付で退職した高橋政代(58)が2019/08/05、神戸市中央区の神戸アイセンターで取材に応じ、退職理由や新たに代表取締役社長に就任した株式会社ビジョンケアの目指す方向性などを語った。

-理研を退職し、兼務していたビジョンケアに移籍した理由は。
「網膜関連治療の実用化を進めるために軸足を移した。研究を一般治療化するには、企業が治験を実施し、承認を得る必要がある。最短で治療開発をする研究に取り組みたい。そのために決心した」

-なぜこの時期か。
「理研のラボは定年退職とともに無くなる。私のラボが無くなる前に研究者らの受け皿を作らなければと考えた。理研の制度で会社役員と研究主宰者との兼任ができないと決まったこともある」

-会社の目指す方向は。
「神戸市立神戸アイセンター病院のサポートなどに携わってきたが、研究はこれから。理研のラボのスタッフが希望すれば移れるように整備し、ビジョンケアで橋渡し研究などを、アイセンター病院の研究センターで基礎研究を行うことを考えている。ビジョンケアでは治療全般について研究開発し、より良いものを生み出したい」

-今後の予定は。
「3カ月から半年ほどで事業計画などのめどを立てたい」

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# 取材したのね。

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iPS細胞世界初移植の高橋政代氏が理研退職 神戸の企業に移籍 <神戸新聞NEXT 2019/07/31 19:04>を編集

 理化学研究所は2019/07/31、生命機能科学研究センターの高橋政代プロジェクトリーダー(58)が同日付で退職すると発表した。高橋は2014年、人工多能性幹細胞(iPS細胞)から作製した網膜細胞を、世界で初めて目の難病患者に移植したチームなどを率いた。今後は再生医療を早期に実用化するため、神戸市内の企業を拠点に活動する。生命機能科学研究センターにも客員研究員として関わる予定。

 理研によると、高橋の移籍先は、最高技術顧問を兼務する株式会社ビジョンケア。再生医療の研究やコンサルティングなどを行っている。目の病気の研究から治療まで総合的に取り組む神戸アイセンター内にあり、理研と同様、神戸医療産業都市を構成している。

 高橋は「理研との協力関係を継続しつつ、視覚障害を克服する医療開発に貢献できるよう、新しい医療の創出にまい進したい」とのコメントを出した。

 高橋が率いてきたチームは、失明の恐れがある滲出型加齢黄斑変性の患者に、患者自身や他人のiPS細胞から作った網膜細胞を移植する臨床研究に取り組んでいる。今後の研究に高橋がどのように携わるかについては、理研は「未定」としている。

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# ちゃんと下のコメント見てから記事にしろよ。

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https://vision-care.jp/
2019/07/31 決意表明

私、高橋政代は、アイセンター関連事業や網膜治療法を開発することを目的として株式会社ビジョンケア(VC’)の経営に注力するため 2019年7月31日をもって国立研究開発法人理化学研究所(以下、「理研」といいます。)のプロジェクトリーダー職を辞し、8月1日付で株式会社 VC’の代表取締役社長に就任することになりました。

理研では今後も客員として、またアイセンター病院研究センターにおいても研究活動を継続しますが、今後は会社に軸足を移して網膜関連治療の実用化を目指します。

私がプロジェクトリーダーを務めた理研の網膜再生医療研究開発プロジェクトで、2014年に世界で初めて行った iPS 細胞由来網膜細胞移植は安全性の確認を第一とし、自家(患者さん本人)の細胞から作製した細胞を用いた、いわゆるオーダーメイド型の治療法でした。次に、安全性を保ちながらも、コストを低減するため、続いて2017年に実施した臨床研究で京都大学iPS細胞研究所(CiRA)にてドナーの細胞から作製された他家iPS細胞を用いました。その結果については、2019年4月に学会で発表した通りです。

一方、一般治療化に向けては、企業が治験を実施し承認を取得する必要があることから、先んじて会社を設立しようと考え、2011年に株式会社日本網膜研究所(現 株式会社ヘリオス)をファウンダーの一人として設立しました。理研認定ベンチャーとして、iPS細胞由来網膜色素上皮(RPE)細胞作製の特許許諾を理研から受け、自ら資本金を拠出、取締役にも就任し、この会社を使って実用化を目指すつもりでした。
しかしながら、iPS細胞由来細胞移植が現実のものとなった際に、臨床研究の責任者となるために、利益相反があってはならないと考え、同社の経営から身を引くことにしました。苦渋の決断でしたが、同社の株式をすべて手放し、取締役も辞任した結果、私自身が同社の舵取りをすることは不可能となりました。

その後、日本網膜研究所はヘリオスへと社名を変更し、本社は東京へ移転、東京証券取引所に上場を果たし、米国のバイオベンチャーから導入した間葉系幹細胞製品の開発に注力する状況となりました。同社は既に、設立時に私が目指していた網膜疾患の治療をメインの事業とする会社ではなくなりました。同社とはその後も協業するチャンスがありましたが、既に私と同社の間には目指すべき科学レベルや運営方針に関する考え方の差が広がってしまっており、関わることはできないと判断いたしました。現在では、同社との共同研究もすべて終了しており、私とヘリオスとの間にいかなる提携関係も存在しません。また、株式会社 VC’とヘリオスとの間で提携あるいは共同研究等を行う予定もありません。

以上の経緯で、私は理研のプロジェクトリーダー職を辞して株式会社 VC’に移籍し自ら様々な網膜治療開発を推進することを決意した次第です。会社の事業計画は追って発表する予定です。

今後も眼科医そして研究者としての知見を発揮し、患者にとって真に良いと思うことを実行するという信念を貫こうと考えています。皆様方におかれましては引き続きご支援のほどよろしくお願い申し上げます。
2019年7月31日
高橋政代
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