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神戸に関連する/しない新聞記事をスクラップ。神戸の鉄ちゃんのブログは分離しました。人名は全て敬称略が原則。

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2019/9/18 05:30神戸新聞NEXT

丹生山周辺にあった山城とは 県内300超の城を測量した男性に聞く

 「北マンスリー 街道を行く」の特集「山田の郷を訪ねて」で、丹生山(神戸市北区山田町)を取り上げたところ、額縁職人で、中世城郭研究家の木内内則(72)から情報が寄せられた。山を登り続けて50年以上になる木内は、メジャーを片手にこれまで300を超える県内の城の測量を実施。それを基に城の測量図を作り、本にまとめてきた。丹生山周辺にあった山城について聞いた。

 時は南北朝時代。後醍醐天皇らの南朝方と足利尊氏らの北朝方に分かれての戦いが約60年続いた。丹生山が、戦いの舞台となるのはその初期の1336年だ。

 新田義貞の一族で南朝方の金谷経氏が丹生山頂にあった明要寺で挙兵し、立てこもった。周囲には複数の金谷側の城が作られ、この山を取り囲むように、北朝方の播磨国守護赤松円心が複数の城を構えたという。この戦いの詳細は不明だが、その後、赤松氏は東播磨や西摂津地域に勢力を拡大していった。

   □   □

 木内さんは、額縁職人として働き始めたばかりのころ、古本屋で江戸時代の播磨地域の地誌『播磨鑑』に偶然出合った。城への記述が目に入り、正しいのか調査を始めたという。

 木内さんは「まず城の角を見つけることが重要」と力を込める。山を歩き、真っすぐ削り込まれている場所を探す。角を発見すると、次に対の角を見つけるという。「額縁を作るにはどうやって四角にするかを計算する。本業の知見が役立った」と笑う。調査したメモを基に測量図を作成する。「大規模な城でも3時間あれば書ける」と胸を張る。

 約20あった丹生山周辺の城も史料などを基に測量。「石垣などはなく、小さな土の城だったことが特徴」と木内さん。「旗を立て、お互いが監視するための場所だったのでは」と推測する。

 城のほとんどが「寺院のそばにあった」事にも注目する。丹生山城(金谷側)は明要寺。多々部城(赤松側、中央区神戸港地方)は大龍寺。聖岡城(赤松側、北区淡河町神影)は石峯寺などだ。

 大きな領地と商業権を持っていた当時の寺院。「寺院の一角を借りて城にし、大部分の兵士は寺にいたのではないか。当時の状況から寺院の協力がなければ戦いをする事は困難だった」と説明する。

 明石や姫路と違い、城の印象が薄い神戸。木内さんは「城の部首は土。石垣がない小さな城は神戸にも多くあった。城を探し続けるために、まだまだ山を登り続けたい」と意気込む。

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スポーツやBBQ、天空温泉… 多彩な施設で楽しんで 神戸・北区のホテル
2019/9/15 05:30神戸新聞NEXT

 昼は里山の豊かな自然を満喫。夜は多くの星が輝く空を眺める。運が良ければ眼下に雲海を見ることができる日も。みのたにグリーンスポーツホテル(神戸市北区山田町原野)。甲子園球場8.5個分の約33万m2の敷地には、テニスコート9面、野球場などがあり、美肌効果があるとされる温泉も人気を集める。未整備エリアにバーベキュー施設を造ったり、畑を整備したりする「谷上天空プロジェクト」が2019/08にスタート。山田の郷の新たなランドマークとして注目される。

 「10万坪の大自然をみんなで開拓!」をキャッチフレーズに、プロジェクトを手掛けるのは、北区で地方創生事業を行う「レストレーション」経営の森脇暉(28)。ホテルとコラボし、ステーキやシーフードが楽しめるバーベキュー施設をオープンさせた。今後は荒野を開拓し、オーガニックの野菜を育てる畑などを作っていく計画を練る。

 2019/09末まで100万円を目標にインターネットで資金を募るクラウドファンディングを実施中で、2019/09/13現在、99万円が集まった。達成できれば、大自然を生かした釣り堀やカブトムシの飼育場の整備、完成披露パーティーの資金に充てる予定だ。

 森脇は「谷上や箕谷を愛する地域の人や、ホテルの利用客らと意見を出し合い、自分たちの『あったらいいな』を実現できる場所にできれば」と力を込める。

 プロジェクト名にもあるように、前面に打ち出すのは「天空」。標高280mに建つホテルからは、山田の郷が一望できる。また、ラジウム・ラドンと呼ばれる珍しい泉質で、美肌効果があるとされる「銀河の湯」では、冬場の早朝、露天風呂から雲海が見られることもあるといい、「天空温泉」とも呼ばれている。

 船員保険総合福祉センターとして1971年に開業した同ホテル。豊富なスポーツ施設を一般に開放し、再出発した2015年以降、兵庫県内外の学生やスポーツ団体など利用者の裾野は広がった。周囲の山へのトレッキングに出掛ける宿泊者も増えている。土俵も整備し、4年前から日本相撲協会の尾上部屋が春場所(3月、大阪)の宿舎として利用するようになった。

 ホテルマネジャーの乙間久穂(45)は「都心から近く、日帰りでも利用できるアクセスの良さが強み。大自然、スポーツ、バーべキュー…。それぞれの過ごし方を楽しんで」と話す。
2019/9/14 05:30神戸新聞NEXT

現存する日本最古の民家 神戸市北区の「箱木千年家」
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国指定重要文化財の「箱木千年家」を守る箱木眞人さん=神戸市北区山田町衝原
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国指定重要文化財の「箱木千年家」を守る箱木眞人さん=神戸市北区山田町衝原
当主の箱木眞人さん(左手前)の説明を聞く海外の茅葺き職人たち
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当主の箱木眞人さん(左手前)の説明を聞く海外の茅葺き職人たち
【上】下谷上農村歌舞伎舞台【中】上谷上農村歌舞伎舞台【下】小河農村歌舞伎舞台(いずれも神戸市提供)
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【上】下谷上農村歌舞伎舞台【中】上谷上農村歌舞伎舞台【下】小河農村歌舞伎舞台(いずれも神戸市提供)
 神戸電鉄箕谷駅から、市バス111系統に揺られ、神戸市北区山田町の西端、衝原へ。お目当ては、現存する日本最古の民家「箱木千年家」(国指定重要文化財)だ。兵庫県三木市との市境に広がるつくはら湖の湖畔にあり、高さ約8メートルの入り母屋造りと重厚な茅葺き屋根は壮観だ。(村上晃宏)

 建築年代を巡っては諸説ある。箱木家に残る文書には平安初期の「806年上棟」と記される。一方で専門家らによると、現在の建築様式は室町時代と推定されるという。

 「家系図をひもとくと、藤原鎌足のひ孫に行き着く」と話してくれたのは、第51代当主の箱木眞人さん(87)。江戸初期に「古くからある」との意味を持つ「千年家」の屋号をもらった記録が残るという。

 屋内は静寂とひんやりとした空気に包まれ、床や戸板はちょうなで削った木材の質感が残る。鉄のように硬い柱や土間のかまどなど、時代の風雪に耐えてきた重みを体感できる。

 実はこの集落、呑吐ダム建設に伴い水没し、千年家も1977年、現在の場所に移転を余儀なくされた。移転前の住宅で育った箱木さんは「冬は寒いし、屋根のふき替えも大変」と振り返りつつ、「まさか国の文化財に指定されるとは」と目を細める。

 今年5月には世界茅葺き会議で来日した7カ国の職人が千年家を視察。「重ねた年月を感じさせない美しさだ」と驚嘆し、茅葺き技術や文化財保全などを学んだ。箱木さんは「乾燥しやすい土地と良質の水が長持ちの秘けつ」と説明しながらも「家の隅々に先祖の苦労がしのばれる。文化財を守り続ける大変さも一緒に共有したい」と話した。

   □   □

 市バス111系統の終着点・衝原から折り返し、新神戸トンネル近くのバス停「小橋」から徒歩5分。“重文銀座”9つ目のお宝は、江戸時代に建てられた「下谷上農村歌舞伎舞台」だ。花道の一部が180度回転し、反り橋が現れる仕掛けは全国でも例のない本格的な歌舞伎舞台とされ、国の重要有形民俗文化財となっている。

 山田の郷にある13の集落は、それぞれに歌舞伎舞台があって、今でもこの下谷上をはじめ、少なくとも7カ所が残っている。「農民が農閑期などに自ら演じる文化が江戸時代に広まった」と山田民俗文化保存会副会長の新田嘉己さん(73)。「演じ手不足で途絶えた時期もあったが、最近は住民有志らが再興や保存に取り組み始めた。特に子どもらの熱演は素晴らしい。この郷に残る伝統をいつの世にも継承していきたい」と力を込めた。
現存する日本最古の民家 神戸市北区の「箱木千年家」 2019/9/14 05:30神戸新聞NEXT

 神戸電鉄箕谷駅から、市バス111系統に揺られ、神戸市北区山田町の西端、衝原へ。お目当ては、現存する日本最古の民家「箱木千年家」(国指定重要文化財)だ。三木市との市境に広がるつくはら湖の湖畔にあり、高さ約8mの入り母屋造りと重厚な茅葺き屋根は壮観だ。

 建築年代を巡っては諸説ある。箱木家に残る文書には平安初期の「806年上棟」と記される。一方で専門家らによると、現在の建築様式は室町時代と推定されるという。

 「家系図をひもとくと、藤原鎌足の曾孫に行き着く」と話してくれたのは、第51代当主の箱木眞人(87)。江戸初期に「古くからある」との意味を持つ「千年家」の屋号をもらった記録が残るという。

 屋内は静寂とひんやりとした空気に包まれ、床や戸板は手斧(ちょうな)で削った木材の質感が残る。鉄のように硬い柱や土間のかまどなど、時代の風雪に耐えてきた重みを体感できる。

 実はこの集落、呑吐ダム建設に伴い水没し、千年家も1977年、現在の場所に移転を余儀なくされた。移転前の住宅で育った箱木さんは「冬は寒いし、屋根のふき替えも大変」と振り返りつつ、「まさか国の文化財に指定されるとは」と目を細める。

 2019/05には世界茅葺き会議で来日した7カ国の職人が千年家を視察。「重ねた年月を感じさせない美しさだ」と驚嘆し、茅葺き技術や文化財保全などを学んだ。箱木さんは「乾燥しやすい土地と良質の水が長持ちの秘けつ」と説明しながらも「家の隅々に先祖の苦労がしのばれる。文化財を守り続ける大変さも一緒に共有したい」と話した。

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 市バス111系統の終着点・衝原から折り返し、新神戸トンネル近くのバス停「小橋」から徒歩5分。重文銀座9つ目のお宝は、江戸時代に建てられた「下谷上農村歌舞伎舞台」だ。花道の一部が180度回転し、反り橋が現れる仕掛けは全国でも例のない本格的な歌舞伎舞台とされ、国の重要有形民俗文化財となっている。

 山田の郷にある13の集落は、それぞれに歌舞伎舞台があって、今でもこの下谷上をはじめ、少なくとも7カ所が残っている。「農民が農閑期などに自ら演じる文化が江戸時代に広まった」と山田民俗文化保存会副会長の新田嘉己(73)。「演じ手不足で途絶えた時期もあったが、最近は住民有志らが再興や保存に取り組み始めた。特に子どもらの熱演は素晴らしい。この郷に残る伝統をいつの世にも継承していきたい」と力を込めた。

貴重な神仏混合の姿をとどめる社寺 神戸市北区の六條八幡宮 2019/9/12 05:30神戸新聞NEXT

 丹生・帝釈山系と六甲山系に囲まれた山田の郷。古くから播州と北摂、京を結ぶ交通の要所として栄え、都から第一級の文化が伝えられた。戦争や自然災害の被害からも免れ、この地域だけで、計9つの重要文化財(国指定)と重要有形民俗文化財(同)が集積する、まさしく“重文銀座”だ。まずは、「丹生の山田」の総鎮守社である六條八幡宮(神戸市北区山田町中)と、聖徳太子が建立したと伝わる無動寺(神戸市北区福地)、隣接する若王子神社(神戸市北区福地)を訪ねた。

 白衣、袴に花笠をかぶった「小刀祢」と呼ばれる射手が、疾走する馬の上から的を射抜く「流鏑馬神事」。毎年10月の第2日曜日に六條八幡宮で繰り広げられる伝統行事だ。六條八幡宮は源頼朝の祖父・為義が1123年に再興したとされ、流鏑馬は市内唯一の神事として、市無形民俗文化財にもなっている。

 珍しいと言えば…。境内を見渡すと室町時代中期に建てられた三重塔(国重要文化財)がそびえる。

 「神社に仏教建築?」

 明治政府の神仏分離令以降、神仏混合の姿をとどめる社寺は激減し、現在では全国で18カ所、県内では3カ所のみという。

 宮司の畠田明彦(57)は「軒先の強い反りや、上層になるほど小さくなる建築様式に当時の特徴が現れている」と説明する。

   □   □

 六條八幡宮から北東に歩いて約1km。淡河町へと続く国道428号近くの山の中腹にある無動寺へ向かった。

 参道は美しいコケに覆われ、住職らが暮らす庫裡は、農村の原風景ともいえる茅葺き屋根だ。その中で、重厚感のある本堂が風格を放つ。住職の久保泰明(72)は「寺は盛衰を経ながら、地域に支えられてきました」と語る。

 無動寺は飛鳥時代、聖徳太子が戦での勝利を願って建立した普救寺(福寺)が起こりとされる。江戸時代に編まれた縁起によれば、現在の本堂は1752年に山田町(旧山田村)出身の高僧、眞源阿闍梨が再建したものという。「帰省の折、寺の荒廃を目にして再建を決意し、寄進を募ったそうです」。

 大日如来座像、釈迦如来座像、阿弥陀如来座像、不動明王座像、十一面観音立像と5体もの仏像が国の重要文化財に指定されている。阿弥陀如来座像(県指定重要文化財)を加え、計6体が本堂奥の収蔵庫(奥殿)に安置され、ガラス越しに拝観できる。
 ひときわ目を引くのは大日如来座像だ。座像ながら約2.8mと巨大で、久保住職は「他寺の仏様と比べても、若々しくエネルギッシュな表情」と胸を張る。
 前列中央は約80cmの不動明王。右手には魔物を退散させる降魔の剣を、左手には悪を縛り上げる「羂索」と呼ばれる縄を携え、大きく見開いた眼に力がある。気品ある表情の十一面観音や量感たっぷりの釈迦如来など、一体一体の個性に引き込まれる。
 久保住職は「訪れた人は『元気をもらった』と喜んで帰られますわ」と笑顔を見せる。

 無動寺の境内にある若王子神社の社殿も国の重要文化財だ。三間社流造で、屋根に堅板葺を残しているのは珍しく貴重だという。

 中世から連なるゆったりとした時の流れに心身をほぐされ、穏やかな気持ちで社寺を後にした。
2019/9/10 05:30神戸新聞NEXT

標高500メートルに井戸? 神戸市北区の丹生山
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ふもとから眺めた丹生山=神戸市北区山田町坂本
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ふもとから眺めた丹生山=神戸市北区山田町坂本
田園地帯にぽつんとたつ丹上神社の鳥居=神戸市北区山田町東下
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田園地帯にぽつんとたつ丹上神社の鳥居=神戸市北区山田町東下
参道に建立される「丁石」。平清盛が月詣りを行う際の目印にしたと伝わる=丹生山
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参道に建立される「丁石」。平清盛が月詣りを行う際の目印にしたと伝わる=丹生山
約500メートルの山頂付近にある井戸=丹生山
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約500メートルの山頂付近にある井戸=丹生山
山頂にある丹生神社の鳥居=丹生山
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山頂にある丹生神社の鳥居=丹生山
 「北マンスリー 街道を行く」。シリーズの冒頭で、神戸市北区山田町(旧山田村)が13の字から構成されていること、約93キロ平方メートルに及ぶ広大な面積は、同区のおよそ4割、神戸市の6分の1を占めることなどを紹介した。旧山田村の中でも、有馬街道の皆森交差点から兵庫県三木市に向かう県道神戸加東線沿いの地域は、古くから摂津国と播磨国を結ぶ裏街道として多くの人々が往来し、豊かな地域文化が育まれてきた。ここからは「山田の郷を訪ねて」と題し、この地に残る遺構や歴史に名を刻む偉人たちの足跡をたどってみたい。(千葉翔大)

 神戸市北区山田町東下。丹生山(標高515メートル)のふもとに広がる田園地帯にぽつんと鳥居が立つ。「丹生神社」と記されるが、周囲に社殿らしき建物は見当たらない。坂本で生まれ育ち、山田民俗文化保存会副会長の新田嘉己さん(73)を訪ねた。

 「神社は丹生山の頂上にあります。すぐそばには、平清盛が再興したとされる明要寺がありました。神社はその総鎮守社です」

 南を六甲山系、北を約14キロに及ぶ丹生・帝釈山系に囲まれた同地域。その昔、神功皇后が行啓した故事から「丹生の山田」と呼ばれ、上質酒米「山田錦」のルーツともいわれる。

 新田さんによると、6世紀中ごろ、古代朝鮮の百済から訪れた王家の子孫らが丹生山を開山し、明要寺を建立したという。その後、1180年に福原(兵庫区)に都を移した清盛が同寺を再興し、比叡山に見立てて信仰したと伝えられる。羽柴秀吉の焼き打ちに遭うまでの約400年間、武士や僧侶らが生活していたという。

 「一度、見てみますか? 時間あるので一緒に登りますよ」と新田さん。

 「真夏」「30度」「徒歩で往復1時間」「汗だく」…。“しんどさ指数”が次々と頭をよぎり、即答できない私に、思わぬ提案が。

 「(坂本側から)2つの登山路があってね。ハイカーが使う『表参道』と、丹生神社の祭りの際、必要な物品を運ぶ『裏参道』。裏ルートなら軽トラックで行けるよ」

 なんと車で登山とは!

 一瞬、驚いたが、何の迷いもなく、新田さんの軽トラの助手席に座っていた。

   □   □

 頂上までの道幅はかなり狭く、凹凸のある山道が続く。上り始めて間もなく、道の脇に高さ120センチほどの石が等間隔で並んでいるのに気づく。

 「あれは何ですか?」

 新田さんに尋ねると「丁石と呼ばれる、登山の目印にするための石です」と教えてくれた。清盛が明要寺に「月詣り」するために建立したとされており、ふもとから山頂までの間に、25個の丁石が、約100メートル間隔で立つ。

 ヘアピンカーブやぬかるみなど、数々の難所を克服し上へ、上へ。あとわずかで山頂という時、軽トラックは裏参道をはずれ小道へ。「不思議なものをお見せしましょう」と新田さんが指さす視線の先には、約10メートル四方の井戸があった。

 「ここは標高約500メートル。こんな高い場所で井戸水があるなんて不思議でしょう」と新田さん。「この水があったからこそ、明要寺で僧侶たちが暮らせ、西の比叡山として栄えたのでしょう」と推測する。

 出発からおよそ20分。ようやく山頂に到着。「丹生山城 丹生山明要寺跡」と刻まれた石碑が出迎えてくれた。“山頂の鳥居”をくぐり、いよいよ丹生神社に足を踏み入れた。

2019/9/11 05:30神戸新聞NEXT

平清盛が再興“西の比叡山”明要寺跡を訪ねて 神戸・北区の丹生山
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宝物庫に展示される「明要寺参詣曼荼羅図」
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宝物庫に展示される「明要寺参詣曼荼羅図」
丹生神社へ向かう表参道にある「丹生山橋」
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丹生神社へ向かう表参道にある「丹生山橋」
丹生山城や明要寺が建立されたことを記す石碑
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丹生山城や明要寺が建立されたことを記す石碑
神社境内にある土俵
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神社境内にある土俵
丹生神社から眼下に広がる北区の住宅街
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丹生神社から眼下に広がる北区の住宅街
 丹生山(神戸市北区)を西の比叡山に見立て、平清盛が明要寺を再興したのは、福原遷都(1180年)とほぼ同時期。当時、絶頂期を迎えていた清盛が、どんな思いでこの地に、この寺を奉ったのか。その後、訪れる平家の終焉を微塵も感じていなかったのだろうか。跡地に立つ石碑を眺めながら、さまざまな想像をめぐらした。(千葉翔大)

 「この上が丹生神社です」。同行してもらった山田民俗文化保存会副会長の新田嘉己さん(73)と坂道を上り切ると、社殿があり、南方向には、北区の住宅街が広がっていた。

 「毎年5月のこどもの日になると、ここで『奉納相撲』が行われています」

 夏草が生え茂っているが、確かに土俵がある。この地域は、江戸時代から相撲が盛んで、昔は地元の青年団が奉納相撲を取っていた。最近は、小学生らに受け継がれる。

 山田郷土誌の中にも、神社の境内などで開く「宮相撲」の記述が残り、勝てば、力自慢の称号を与えられていたようだ。

    □  □

 帰りは自力で下山することに。来た時の「裏参道」ではなく、「表参道」を進むことを選択した。

 「20分程度で下りられると思います」。新田さんはこう言い残し、軽トラックで山頂を後にした。

 地面には落ち葉や木々の枝が転がり、ゴツゴツとした岩肌も見える。前日の雨で表面が湿っていて、少しでも気を抜くと滑ってしまいそうだ。清盛が約100メートル間隔に置いた計25の「丁石」をたどりながらふもとへ。上から4番目の「四丁石」から先は、石の階段が現れる。段差が激しく、最大で40センチ以上あった。ここまで来ると、下山し始めたころの余裕はなくなっていた。額からは大きな汗の粒が滴り落ちた。道は左右に弧を描くように曲がる。途中からは同じ道を何度も通ったような感覚に陥ってしまう。

 弱音を吐きそうになった時、眼下に橋が架かっているのが目に入った。緑のツタが絡まり、かなりの年季だ。左右に取り付けられた柱には、右側に「丹生山橋」、左側には「昭和十六年八月」とある。その隣には「延命地蔵尊」と書かれた石仏が立っていた。この地蔵を目印に、表と裏の参道が分かれている。

 そこに新田さんの軽トラックが止まっていた。「少し掛かったね」と缶コーヒーを手渡してくれた。手元の時計に目をやると出発から30分を過ぎていた。

    □  □

 無事、下山すると、サプライズが待っていた。毎年、こどもの日にしか開かない宝物庫があり、特別に中を見せてもらえるという。

 中は20畳ほどの広さでY字型に区切られ、市指定有形文化財にも選ばれた「明要寺参詣曼荼羅図」が展示される。「平清盛が寄贈した」とも伝えられている。このほか、丹生山を焼き打ちにした羽柴秀吉の関連資料もあった。

 「こんなにも歴史を感じることができるとは…」と感心していると、新田さんは静かに口を開いた。

 「山田の郷は、まだまだこんなもんじゃない」
将来は登録文化財? 横に動くエレベーター 神戸 <2019/9/2 05:30神戸新聞NEXT>を編集

 神戸電鉄有馬線の車窓からのどかな風景を眺めていると、山の斜面をはうように並ぶ銀色パイプが見えた。「あれは何?」。もしかして、某テレビ局のナニコレ珍百景にエントリーできそうな素材では! 「次は、花山」。車内アナウンスが流れる。気になったら調べるのが記者のさが。途中下車し、近づいてみると、その正体は-。何と「日本初の○○」だった。

 神鉄花山駅(神戸市北区花山台)で下車すると、多くの人が南東方向に歩き出す。志染川に架かる橋を渡り切ると、「花山東団地」と記された看板が。どうやら、山の上には都市再生機構(UR)が管理するマンション群があるようだ。

 銀色のパイプのたもとにたどり着く。先についた住民女性が、ホールの壁に設置されたボタンを押す。近づくと、左右にエレベーター2基を発見した。

 「花山東グリーンエレベーター(愛称スカイレーター)」。説明には「URが屋外に設置した第1号-」とある。女性と一緒に乗り込むと、上下ではなく、斜めに動き出した。「え? 横向き?」と驚いていると、女性が「山の上まで歩くのしんどいから、斜行エレベーターがついてるねん」と教えてくれた。
 ボタンは「上」「下」の二つのみ。天井下にはつり棒が設置されており、「満員電車のようになれば、棒をつかんでバランスを取るのかしら」と思いを巡らせた。
 約40秒で「上」に到着。ロープウエーさながらの絶景(?)を楽しんだ。ちなみに、階段を上ってみると、私の足で2分半程度。息は切れ切れになった。

 設置者のUR西日本支社に取材すると、団地自体は1970年代後半に開発されたが、エレベーターは1984年に設置された。全長約62mで、高低差は約27m。担当者によると、「われわれが誇る日本で初めての斜行エレベーターです」。

 インターネット上では、「乗り鉄」ならぬ、「乗り斜行エレベーター」と呼ばれる愛好家たちが、「スカイレーターは、近い将来の登録文化財候補ではないだろうか」とブログで絶賛しているのも見つけた。

 山に沿う銀色の2本パイプは実は、住民の生活を支える縁の下の力持ちで、日本最古の斜行エレベーターだった。
六麓荘だけじゃない 神戸の「ビバリーヒルズ」潜入 神戸柏尾台 <2019/08/29 05:30 神戸新聞NEXT>を編集

 1区画当たりの敷地面積の平均は約500m2(約150坪)。まちは美しく清掃され、街路樹の手入れも行き届いている。1日2回、管理員が巡回し、地区内に設置された計7台の防犯カメラが、不審者に目を光らせる。新神戸トンネルの箕谷ランプ近くに広がる神戸市北区柏尾台。いつしか人はこのまちを「北区のビバリーヒルズ」と呼ぶようになった。どんな豪邸が建ち、どんな人が暮らしているのか。早速、調査を始めた。

 柏尾台は1980年に東京の不動産会社が中心となって開発し、1993年から分譲が始まった。当時の本紙記事には土地建物価格(平均)1億円前後とある。
 「やはり、億ションやったんや」
 取材をしようと自治会を探すが見当たらない。調べると「管理組合法人」なるものが存在した。理事長の中元勝子さん(71)に話を聞いた。
 「ここには自治会はないの。住人が管理組合(通称・柏尾台六甲倶楽部)を法人化させて、管理会社に住宅街を管理してもらっているのよ」
-どんな人が暮らしているのでしょう?
 「医者や会社経営者などが多いわね。昔に比べ、土地の値段が下がったので、最近は若い世代も入ってきてるの」
 まちを巡ると高級外車が数台並ぶガレージや青々と芝がまぶしい庭園を備えた豪邸が並ぶ。教会のような西洋風の建物や近代的な造りの住宅なども目に入る。
 さらに驚くのは、まちの中心部にある六甲倶楽部のクラブハウスだ。組合員が会合を行う会議室のほか、トレーニングマシンを設置したジムスペース、テニスコートなども併設されている。住人の同倶楽部への加入は原則義務とされ、入居時にクラブハウスの修繕積立金などとして120万円を支払う。そのほか毎月徴収される組合費約1万4000円は、管理会社への委託料金などに充てている。
 「高いでしょ。でも料金がかかる分、住宅街の清掃とかも住人はやらなくていいの」と中元理事長。また、回覧板もなく、住民で共有すべき情報は管理会社から各戸に知らされる。

    □  □

 それではお待たせしました。豪邸訪問でーす!
 西洋の城のようなとがった屋根が特徴の男性(71)宅。東京で自営業を営んでいたが、数年前に引退。その後、学生時代を過ごした神戸に戻ってきたという。「友達も多いので関西で探していたところ理想的な住宅を見つけられた。トンネルもあるので三宮に飲みに行ってもすぐに帰れるところもいい」と太鼓判を押す。芝生が整備された庭には、喫煙専用のあずまや、屋内には愛犬専用の部屋を設けるなどのこだわりだ。

 また、元船長の男性(78)宅は、バラや桜などあらゆる植物を栽培する約190m2の庭園が特徴。「趣味の園芸を楽しめる」と満足げだ。

    □  □

 一方で、空き地も点在する。神戸市によると、2019/05末時点で、全187区画中、住宅が建っているのは91区画(92世帯、226人)にとどまる。

 「あなたも転入なさる?」と中元さん。

 「僕にはとても」。こう答えながらも、セレブになった自分を想像し、ビバリーヒルズを歩いてみた。

2019/8/27 05:30神戸新聞NEXT

海のない神戸・北区に波の音? その正体は…
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山中に設けられた人工サーフィン施設=神戸市北区山田町原野
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山中に設けられた人工サーフィン施設=神戸市北区山田町原野
「マシンウエーブ」に乗るサーファー=神戸市北区山田町原野
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「マシンウエーブ」に乗るサーファー=神戸市北区山田町原野
 山あいに響く波の音。神戸市北区に海はないはずだが…。音の方向をたどると、突然、山間部にぽっかりと池が現れた。その周辺には、真っ黒に日焼けした半裸の男性らが。

 波の音の正体は人工サーフィン施設「KOBE-REYES(コウベレイーズ)」=同市北区山田町原野。三宮から車で約20分(新神戸トンネル経由)。市街地からすぐに行けるサーフスポットとして2016年にオープンした。

 縦120メートル、横60メートルの屋外プールに、波を発生させる装置があり、高さ1メートル前後の波をつくる。中央から左右に崩れるきれいな波が特徴だ。

 「一度にプールに入れる人数には制限がありますが、何回でも乗れるので初心者の練習にも格好の場所」と施設を運営する「レスポンスエンジニア」広報担当の小林建道さん(36)はPRする。

 通常、海で行うサーフィンでは、波の頂上付近に、多くのサーファーが集まるという。「当然、うまい人、体力のある人らがいい波を独占してしまう」。また、自然界では「同じ波は来ない」と言われ、小林さんは「マシンウエーブだと、ほぼ全て同じ大きさと形の波が起こせ、自分の技術が分かりやすい」と太鼓判を押す。(西竹唯太朗)

2019/8/27 05:30神戸新聞NEXT

冬は寒いが景色は最高 標高390mにある神戸甲北高校
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兵庫県内の公立高校で標高が1番の神戸甲北高校=神戸市北区大脇台
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兵庫県内の公立高校で標高が1番の神戸甲北高校=神戸市北区大脇台
校舎4階からの眺め=神戸市北区大脇台
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校舎4階からの眺め=神戸市北区大脇台
 「関西の軽井沢」。鈴蘭台(神戸市北区)がこう呼ばれたゆえんはその標高にある。取材を続ける中、ある光景に遭遇した。それは神戸電鉄北鈴蘭台駅から“登山”いや“登校”する神戸甲北高校(同市北区大脇台、全校生徒714人)の生徒の姿だ。

 その標高を調べると、兵庫県姫路市の書写山(約370メートル)よりも高い約390メートル。「もしや…」と思い調べると、案の定、県内の公立高校で1番だ。

 同校の辻真吾教頭(52)は「山の上なので、校舎が霧やかすみに覆われることがあり、麓の人からは、雲の中に立つように見えると言われます」と話す。校舎の4階まで上ると標高400メートルを超えるという。

 1番なのは標高だけじゃない。同校は兵庫県で初めて総合学科を設立。韓国語やインドネシア語などのアジアの言語から、栄養や福祉などの専門分野まで、生徒一人一人が目標を持って授業を選択することができる。

 同校2年の男子生徒(17)は「冬は痛いぐらいの寒さだけと、校舎から見える夕景は最高。進路について、先生が親身になって考えてくれるので魅力の多い学校です」と笑顔で話した。(喜田美咲)

2019/8/28 05:30神戸新聞NEXT

「港都・神戸」発展に寄与 世界60カ国の外国人ら眠る再度山
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近代神戸を彩った人物が眠る外国人墓地=北区山田町下谷上
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近代神戸を彩った人物が眠る外国人墓地=北区山田町下谷上
幕末の堺事件で亡くなったフランス水兵も眠る=北区山田町下谷上
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幕末の堺事件で亡くなったフランス水兵も眠る=北区山田町下谷上
船のかじを模した墓碑=北区山田町下谷上
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船のかじを模した墓碑=北区山田町下谷上
墓地のそばには、空海ゆかりの場所もある=北区山田町下谷上
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墓地のそばには、空海ゆかりの場所もある=北区山田町下谷上
 「港都・神戸」をつくり、そして支えた多くの外国人たちが眠る市立外国人墓地(神戸市北区山田町下谷上)。六甲山系・再度山の北側にあり、東京ドームほぼ3個分に当たる14ヘクタールほどの広大な敷地に世界約60カ国、約2900人の墓が並ぶ。北野・異人館や三宮・旧居留地以上に「異国情緒を放っている」と感じるのは私だけだろうか。墓地の前に立ち、静かに手を合わせる。夏の暑さを和らげる風が頬をなでる。港都の発展に寄与した先人たちの歩みに思いをはせた。(長沢伸一)

 J・マーシャル(英・初代神戸港長)

 E・タルカット(米・神戸女学院創立者)

 E・H・ハンター(英・日立造船所の前身を創設)

 F・D・モロゾフ(露・洋菓子職人)

 R・G・スミス(英・博物学者)

 W・R・ランバス(米・関西学院創立者)

 E・B・クラーク(英・日本ラグビーの父)

 A・C・シム(英・18番ラムネの発明)

 H・フロインドリーブ(独・パン職人)

 J・C・ウィルキンソン(英・天然の炭酸鉱泉を発見)

 墓に刻まれたそうそうたる名前に圧倒される。

 墓地を管理する市森林整備事務所の栗山明久所長(56)が、「神戸港開港前に居留地についての取り決めがあり、墓地を用意する約束が決められました」と説明してくれた。

 1960年代半ばごろまでは墓地への立ち入りが自由だったが、現在は遺族らに限定。2006年度からは4~11月の毎月第4日曜日に、ガイドが同行する見学会を開いている。07年には国の名勝指定を受けた。最近は新しい墓ができることはほとんどないが、今でも遺族など年間約2千人が訪れるという。

 国別の墓数をみると、英国、米国、ドイツの順。おおむね、キリスト、ユダヤ、イスラム、ヒンズーなど宗教ごとにエリア分けされ、墓石の形状は多種多様だ。中でも強烈だったのはゾロアスター教の墓だった。「拝火教」の名の通り、燃え盛る炎のシンボルがあしらわれていた。また、船のかじや本などの墓碑も目を引いた。

 「実はこの場所、ある日本の歴史的人物とゆかりが深いんです」と栗山さん。聞くと「弘法大師空海が中国の唐に渡る直前と、帰国直後に訪れたとされています。この逸話からここは再度山となったんです」。

 空海の故事から名前がついた再度山にある外国人墓地。栗山さんは「まさに和洋折衷の神戸らしい場所では。神戸の歴史を知るために大切な場所です」と口にした。

【神戸市の外国人墓地】神戸港開港に先立つ1867(慶応3)年、神戸沖に停泊中の英米艦船から乗組員4人の死者が出たため、小野浜(現・中央区浜辺通)に埋葬したことが始まり。開港後、居留地の発展とともに埋葬者が増えた。99(明治32)年には春日野(同区籠池通)も造成され、その後の急速な市街化で現在の場所に移された。

「やはり、メジャー」神戸市北区山田町ってどんな町? <2019/8/15 05:30神戸新聞NEXT>を編集



 全国に約82万人(12位)、兵庫県に約3.2万人(県内10位)いるとされる「山田さん」。それでは山田町(村)あるいは山田という自治体や町村、地名はどれくらい存在するのだろうか? 
 ネットで検索してみると「全国に約2千カ所」と記載するサイトもある。「やはり、メジャーだ」。北マンスリー最初のミッションは「神戸市北区山田町」がどんな町なのかを明らかにすること。取材を続けていくといくつもの「へぇー」に出合った。

■神戸市の約1/6

 南は六甲山系、北は帝釈・丹生山系に囲まれた山田町。1889(明治22年)の町村制施行により、上谷上、下谷上、原野、福地、中、東下、西下、衝原、小河、坂本、藍那、小部、与左衛門新田の13の村が集まり、八部郡山田村が誕生した。その後、武庫郡から神戸市兵庫区へと編入を重ね、1973(昭和48)年に神戸市北区となった。

 神戸電鉄沿いに開発された住宅街は、鈴蘭台東、西、南、北町、惣山町、筑紫が丘、広陵町、北五葉、星和台、しあわせの村、などの住所名に変更されているが、大半は山田町の大字名として、その名をとどめている。

 驚くのは旧山田村の広さだ。約93km2に及び、神戸市北区の約40%、神戸市全体の約1/6を占める。旧山田村だけで、灘、中央、兵庫、長田の4区を合わせた面積を上回る。

■重文“銀座”

 山田川(志染川)流域を東西に走る県道神戸加東線は、山陽道の裏街道として第一級の文化が流れ込んだと言われている。
 詳細は2019/08下旬ごろ、特集「山田の郷を訪ねて」で掲載するが、日本最古の民家の一つとされる箱木千年家(衝原)、六條八幡宮(中)の三重の塔、無動寺(福地)の大日如来座像など5体、若王子神社(福地)の社殿が国の重要文化財に指定されている。また、下谷上農村歌舞伎舞台(下谷上)は国指定重要有形民俗文化財となっている。
かつては命がけの険路 有馬街道の昔の地名を調査 <2019/8/14 05:30神戸新聞NEXT>を編集

 「街道を行く」。その名の通り、神戸市北区の“大動脈”である有馬街道を北へ、北へと歩を進める。
 まずは起点、終点からおさらいしたい。皆森交差点(神戸市北区山田町)まで重複する国道428号の起点(神戸市中央区)が「有馬道」のため、混同しやすいが、現在、一般的に有馬街道と呼ばれているのは兵庫県道15号神戸三田線。神戸市兵庫区平野町を起点に日下部交差点(神戸市北区道場町)までだ。ただ、有馬街道をネット検索すると「神戸・大阪から有馬温泉に至るまでの街道の名称」と表示され、この神戸三田線を含め、主に4つのルートを指すという。

 「昔は車はおろか、歩くのも難しい険路だったと聞く」。山田民俗文化保存会会長の宮脇三明(75)が口を開く。
 現在の神戸三田線は、「天王谷越え」と呼ばれ、その道幅はわずか6尺(1.8m)ほどだった。さらに険しくなる箇所もあり、川を飛び石伝いに何度も渡らなければ、通れない難所も数多くあったという。

 沿道の交差点には、その名残を感じさせる昔の地名標識や看板が並ぶ。
 小部トンネルを抜けてすぐの交差点で標識を見上げると、「水呑」の文字が。「険しい山道を越えてきた旅人が喉を潤したという伝承からこの名が付きました」と宮脇。ここは、旅人同士が産物を交換し合う場所としても栄えたという。
 続く交差点の「二軒茶屋」には、昭和初期まで2軒の茶屋があったといい、再び険路に入る前に休憩した場所とされる。
 小部峠を越えると、一転、下り坂。その道中には現在の町名にまったくなかったり、字名にしか登場しなかったりする標識がある。
 「大正坊」=平安期以降、この地に宿坊があったことが由来だという。1500年代後期に、播州征伐で三木城主の別所長治を豊臣秀吉の軍が攻めた際に焼かれた。
 「皆森」=平安期、源義経勢が一ノ谷に向かう際、村人らが軍勢「皆」に飯を「盛って」もてなした。のちに「盛」が「森」になったと伝わる。
 「芝床」=“芝”は台地を削って最初に集落が築かれた場所
-などの伝承が残るという。

 阪神高速北神戸線の箕谷JCTを越え、旧山田村の東端が近づいてきた。有馬へはまだまだ遠い。湯治に商売、理由は数あれど、命がけでこの道を越えた先人たちに思いを寄せた。
2019/8/11 05:30神戸新聞NEXT

特区シリーズ第6弾は「北区」 有馬街道を北上し魅力探る

 海風を背に市街地から有馬街道を越えて、あるいは新神戸、六甲山トンネルを抜けて六甲連山の北側に出ると、「港町・神戸」とはまったく違った神戸に出合う。

 約240km2と神戸市内最大、神戸市全体の4割超の面積を占める神戸市北区には、現在、約21.2万人が暮らしている。
 主要幹線に沿うように住宅街が広がり、日本三古湯の一つ有馬温泉には年間約176万人が訪れる。日本一の酒米と称される山田錦の栽培面積は339.64haに上る。

 遊びにも事欠かない。
 ロッククライミングの聖地「百丈岩」(道場町)や六甲山森林植物園(山田町)、あいな里山公園(山田町)など自然と触れ合うスポットのほか、パブリックコースを含め、11のゴルフ場が集まる。

 山田村(武庫郡)、有馬町、有野村、道場村、八多村、大沢村、長尾村(有馬郡)、淡河村(美嚢郡)が、戦後の1947~1958年にかけ兵庫区に編入され、1973年に兵庫区から分区して北区が誕生した。今春には北神支所が北神区役所に昇格した。

 平清盛、源義経、豊臣秀吉など、数多くの歴史上の偉人たちがたどったとされる道が今も残る神戸市北区。神戸版特区シリーズ第6弾は「北マンスリー 街道を行く」と題し、大動脈である有馬街道を北へ、北へと歩きながら、交通の結節点として発展を遂げたまちの歴史や豊かな自然の中で生きる人々の暮らしぶりを追う。
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