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神戸に関連する/しない新聞記事をスクラップ。神戸の鉄ちゃんのブログは分離しました。人名は全て敬称略が原則。

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【復興日本】第3部 120日後の現実(1) 71歳 再び避難所へ <MSN産経 2011/07/12 06:53>を編集
■東日本大震災4カ月

 東日本大震災で被災した宮城県石巻市の女性A(71)は、100日ぶりに避難所に戻ってきた。

 石巻市立門脇中学校の体育館。布団はない。毛布を4枚重ねた上に眠るだけ。食事のたびに配られるおにぎりや弁当で空腹をしのぐ。夜は体育館に足音が響くたびに目が覚める。「何もなくていいんです。住む場所さえ決まれば…」震災から4カ月、依然居場所が定まらぬ境遇は体力も気力も容赦なく奪っていく。

×××

 夫(75)と一人娘(42)は、石巻市内にあった自宅ごと津波にのまれ、命を落とした。ひとりぼっちになり、避難所に入ったAを迎え入れてくれたのは、石巻市内で1人で暮らす姉(74)だった。震災から3日後、2011/03/14のことだ。

 3部屋のアパートで、居間に布団を敷いて寝泊まりした。妹の話にいつまでも耳を傾けてくれた。悲しい思いを懸命にこらえているAを気づかうように、姉は慎重に言葉を選びながら、一緒に遺体安置所を回ってくれた。

 「身を寄せるのは仮設住宅に入るのが決まるまで」と約束し、2011/04になるとすぐに入居希望を申請した。ところが何度も何度も抽選からもれる。その日はいつまで待っても来ない。日がたつにつれ、感謝の気持ち以上に、申し訳ないという気持ちが支配してきた。「姉は無理しているんじゃないか」。伏せりがちだった姉なのに、Aの前では背筋をのばして座っているばかりで、ゆっくり寝ころぶ姿を見せなくなっていた。「これ以上、迷惑はかけられない」と避難所へ戻ることを告げるAに、「あんたが決めたことなんだから、そうしてみたら」と応じた姉。Aは避難所に戻った。

×××

 もっとも、たとえ仮設住宅に入居が決まったとしても、Aを迎える家族はもういない。

 震災前、夫は毎日、車でパート先まで送り迎えをしてくれた。待ち合わせは、いつも職場近くにあるスーパーの駐車場の同じ場所だった。今でもスーパーに買い物に寄るたび、見まいと思っても、その場所に目が向く。「今日もいないな」。わかりきっているはずのことなのに、涙がこぼれそうになる。
 石巻市内の高校の図書館司書として働いていた娘は、毎日帰宅前には必ず電話をかけてきていた。「今、近くまで来たからもうすぐ帰ります」という声が頭を離れない。
 「『遺体が見つかってよかったね』って言ってくれる人もいる。でも、よかった、はないんです。あの日はもう帰ってこないんです」。Aはあふれる涙をハンカチで拭った。「時間がたてば、少しは忘れられるんでしょうか」



■「生きるのがしんどかった」

 震災から2カ月余りがたった2011/05下旬、久しぶりのわが家での生活は想像以上に厳しかった。

 石巻市の女性B(63)が震災発生直後から入っていた避難所の解散を機に戻ってきた平屋建ての自宅。玄関は津波の衝撃で閉まらなくなっており、出入りは縁側から。隙間風もひどい。持病のリウマチが悪化し、下半身全体に痛みが走る。歩くのもままならなくなり、「生きるのがしんどかった」とBは振り返る。2011/06下旬には避難所生活に戻り、仮設住宅への入居を申し込んだ。

 その少し前、震災以来連絡がとれなくなっていた姉(67)が自宅に訪ねてきた。「この家はもう直らないよ」と説得した姉は、そのとき、長女(姉には姪)(39)が津波で亡くなっていたことを告げた。長女は義理の両親を避難させるため家に戻り、夫と8歳と4歳の息子の目の前で両親とともに津波に流されたという。

 Bは「子供にとっては一番お母さんが恋しい時期。仮設住宅に入ったら、子供も訪ねてくれるようになりますよね」という。仮設住宅を待つ理由が一つ増えた。「避難所では3食出るし、よく眠れています。みなさんには本当に感謝です」というB。それでも、飼いネコ十数匹のエサやりもかねて、唯一の楽しみの音楽を聴きに、痛む体を押して自宅通いをしている。

×××

 宮城県、福島県、岩手県で着工が決まった仮設住宅は2011/07/10時点で5万戸。宮城県では、なお約2000戸の用地すら決まっていない。全国の避難所にはいまも2万人以上が暮らしている。

 岩手県では全1万4000戸中約1万2000戸が完成しているのに、入居は8000戸あまりにとどまっている。日本赤十字社が支援する生活家電セットの手配が遅れ、入居が進まないのだ。首相の菅直人が「お盆までには完了させる」と約束した仮設住宅への入居。その期限まで約1カ月、「建設に1カ月かかることを考えれば目標は達成できない」と宮城県の担当者はいう。

 「家は建て直せるのか。もうそこには住めないのか。どちらでもいいから、早く決めてほしい」。妻(52)と母親(80)を津波で亡くし、自宅は流失。長男(27)、長女(22)、三男(16)とともに石巻市の避難所で暮らす男性C(53)はいらだちを隠そうとしない。

 仮設住宅への入居を申し込む一方で自宅再建の望みも捨てていない。だが、自宅があった地域には半年間、修繕以外は認めない建築制限が設定されている。住宅地以外への変更も予想され、この期に及んで先の見通しがまったくたたない状況が続いている。家が決まらなければ、仕事も探せない、と家族の焦燥感は頂点に達している。「こういうとき、男親って何をすればいいんですかね」。Cはぽつりと漏らした。

 実をいえば、亡くなったCの妻と母が火葬されたのは2011/06中旬、それまでは土葬のままだった。火葬場が空かなかったためだ。宮城県内には墓地に土葬されて家族のもとに帰れないでいる約600人の遺体がある。

 被災地では亡くなってからも、安息の地を見つけるのは難しい。



 震災から4カ月が過ぎた。被災していない人の記憶が薄れはじめても責められない長さかもしれない。しかし、4カ月はAのいう「時間」にはなっていない。そしてそれは、すべての被災者、被災地に通じている。
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