Sclaps KOBE
神戸に関連する/しない新聞記事をスクラップ。神戸の鉄ちゃんのブログは分離しました。人名は全て敬称略が原則。
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【社説】被災者になって分かったこと <神戸新聞 2010/01/17>
昨夜放送されたドラマ「神戸新聞の7日間」をご覧になった方から、「番組内で紹介された社説を読みたい」とのリクエストがありましたので、ブログに転載いたします。
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1995年1月20日朝刊1面
「被災者になって分かったこと」
あの烈震で神戸市東灘区の家が倒壊し、階下の老いた父親が生き埋めになった。3日目に、やっと自衛隊が遺体を搬出してくれた。だめだという予感はあった。だが、埋まったままだった2日間の無力感、やりきれなさは例えようがない。被災者の恐怖や苦痛を、こんな形で体験しようとは、予想もしなかった。
あの未明、ようやく2階の窓から戸外へ出てみて、傾斜した2階の下に階下が、ほぼ押し潰されているのが分かり、恐ろしさでよろめきそうになる。父親が寝ていた。いくら呼んでも返答がない。
怯えた人々の群が、薄明の中に影のように増える。軒並み、かしぎ、潰れている。ガスのにおいがする。
家の裏へ回る。醜悪な崩壊があるだけだ。すき間に向かって叫ぶ。
何を、どうしたらよいのか分からない。電話が身近に無い。だれに救いを求めたらよいのか、途方に暮れる。公的な情報が何もない。
何キロも離れた知り合いの大工さんの家へ、走っていく。彼の家もぺしゃんこだ。それでも駆けつけてくれる。
裏から、のこぎりとバールを使って、掘り進んでくれる。彼の道具も失われ、限りがある。いつ上から崩れてくるか分からない。父の寝所とおぼしきところまで潜るが、姿がない。何度も呼ぶが返事はなかった。強烈なガスのにおいがした。大工さんでは、これ以上無理だった。
地区の消防分団の10名ほどのグループが救出活動を始めた。瓦礫の下から応答のある人々を、次々、救出していた。時間と努力のいる作業である。頼りにしたい。父のことを頼む。だが、反応のある人が優先である。日が暮れる。余震を恐れる人々が、学校の校庭や公園に、毛布をかぶってたむろする。寒くて、食べ物も水も乏しい。廃材でたき火をする。救援物資は、なかなか来ない。
いつまで辛抱すれば、生存の不安は薄らぐのか、情報が欲しい。
翌日が明ける。近所の一家5人の遺体が、分団の人たちによって搬出される。幼い3児に両親は覆いかぶさるようになって発見された。こみ上げてくる。父のことを頼む。検討してくれる。とても分団の手に負えないといわれる。市の消防局か自衛隊に頼んでくれといわれる。われわれは、消防局の命令系統で動いているわけではない、気の毒だけど、という。
東灘消防署にある救助本部へいく。生きている可能性の高い人からやっている、お宅は何時になるか分からない、分かってほしいといわれる。十分理解できる。理解できるが、やりきれない。そんな2日間だった。
これまで被災者の気持ちが本当に分かっていなかった自分に気づく。“災害元禄”などといわれた神戸に住む者の、一種の不遜さ、甘さを思い知る。この街が被災者の不安やつらさに、どれだけこたえ、ねぎらう用意があったかを、改めて思う。
昨夜放送されたドラマ「神戸新聞の7日間」をご覧になった方から、「番組内で紹介された社説を読みたい」とのリクエストがありましたので、ブログに転載いたします。
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1995年1月20日朝刊1面
「被災者になって分かったこと」
あの烈震で神戸市東灘区の家が倒壊し、階下の老いた父親が生き埋めになった。3日目に、やっと自衛隊が遺体を搬出してくれた。だめだという予感はあった。だが、埋まったままだった2日間の無力感、やりきれなさは例えようがない。被災者の恐怖や苦痛を、こんな形で体験しようとは、予想もしなかった。
あの未明、ようやく2階の窓から戸外へ出てみて、傾斜した2階の下に階下が、ほぼ押し潰されているのが分かり、恐ろしさでよろめきそうになる。父親が寝ていた。いくら呼んでも返答がない。
怯えた人々の群が、薄明の中に影のように増える。軒並み、かしぎ、潰れている。ガスのにおいがする。
家の裏へ回る。醜悪な崩壊があるだけだ。すき間に向かって叫ぶ。
何を、どうしたらよいのか分からない。電話が身近に無い。だれに救いを求めたらよいのか、途方に暮れる。公的な情報が何もない。
何キロも離れた知り合いの大工さんの家へ、走っていく。彼の家もぺしゃんこだ。それでも駆けつけてくれる。
裏から、のこぎりとバールを使って、掘り進んでくれる。彼の道具も失われ、限りがある。いつ上から崩れてくるか分からない。父の寝所とおぼしきところまで潜るが、姿がない。何度も呼ぶが返事はなかった。強烈なガスのにおいがした。大工さんでは、これ以上無理だった。
地区の消防分団の10名ほどのグループが救出活動を始めた。瓦礫の下から応答のある人々を、次々、救出していた。時間と努力のいる作業である。頼りにしたい。父のことを頼む。だが、反応のある人が優先である。日が暮れる。余震を恐れる人々が、学校の校庭や公園に、毛布をかぶってたむろする。寒くて、食べ物も水も乏しい。廃材でたき火をする。救援物資は、なかなか来ない。
いつまで辛抱すれば、生存の不安は薄らぐのか、情報が欲しい。
翌日が明ける。近所の一家5人の遺体が、分団の人たちによって搬出される。幼い3児に両親は覆いかぶさるようになって発見された。こみ上げてくる。父のことを頼む。検討してくれる。とても分団の手に負えないといわれる。市の消防局か自衛隊に頼んでくれといわれる。われわれは、消防局の命令系統で動いているわけではない、気の毒だけど、という。
東灘消防署にある救助本部へいく。生きている可能性の高い人からやっている、お宅は何時になるか分からない、分かってほしいといわれる。十分理解できる。理解できるが、やりきれない。そんな2日間だった。
これまで被災者の気持ちが本当に分かっていなかった自分に気づく。“災害元禄”などといわれた神戸に住む者の、一種の不遜さ、甘さを思い知る。この街が被災者の不安やつらさに、どれだけこたえ、ねぎらう用意があったかを、改めて思う。
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