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神戸に関連する/しない新聞記事をスクラップ。神戸の鉄ちゃんのブログは分離しました。人名は全て敬称略が原則。

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彼だけが震災を語ることが出来る国会議員だ。
悲しみの告白[岩手県陸前高田市出身]民主党・黄川田徹衆議院議員「かーちゃんのコロッケが食いたいね」 <週刊プレイボーイ 2011/04/19>を編集

岩手県陸前高田市出身の衆議院議員・黄川田徹が、悲しみを乗り越え心境を語る

東日本大震災は国会議員も襲った。言葉を失うほどの悲劇を体験。しかしそれを胸に秘め、民主党衆議院議員の黄川田徹は淡々と話し始めた。

■津波の10分前、妻とした電話が最後の会話に

議員会館の部屋を訪ねた記者に開口一番、議員はこう言葉を発した。

「もうね、私は涙も枯れ果ててしまいました」

それもそのはずだ。議員は先日の東日本大震災で、両親と妻、長男に加え、公設第二秘書も津波に流されてしまったからだ。

2011/03/11 14:46。大震災の瞬間、議員は会館の自室にいた。

「いきなり、ものすごい揺れだったでしょ。震源地は私の選挙区でもある東北でした。慌てて、うちのかーちゃん(妻)に電話すると、地震の直後は電話が通じたんです。家内は『家の中はひどい状態よ。片づけに1週間はかかるわ』って。その直後に10mをはるかに超える津波が来て、かーちゃんと連絡が途絶え……いまだに見つかってません」

その後、現地入りをすべく尽力するが交通機関の崩壊で思うに任せず……。

「私が自宅のある陸前高田市をようやく見たのは2011/03/16です。高台から見た被災地は、そりゃもう茫然自失で声も出ませんでした。5mの高さの防潮堤も2万本あった松の防風林も根こそぎやられ、私の自宅、事務所、隣接していた市役所は跡形もなく、どこへ流されたのかもわからない。妻がいつも弾いていたピアノさえ見つかっていない。あれ、200kgもあるんですよ」

議員はしかしその後、精力的に被災地回りを始めた。

「家族が津波に流されたのは私だけではない。警察官や消防団でもご家族が被災されたり犠牲になってて、そんななかで懸命に救助活動をしてる。国会議員の私が悲しんでばかりいるわけにはいかない。国や県に被災地の正しい現状を知らせることが第一だと考えて、被災地回りを始めました。

その際に運がよかったというか、かーちゃんの妹のとこに昔のガス車があったんですよ。黒塗りのクラウンですが、これならガソリンがいらない。これで私の選挙区をくまなく走りました。陸前高田も行政機関が全滅で給食センターが災害対策本部でしたが、どこもかしこも町や村の体をなしていない。もちろん、そういう状況を政府や党にも報告しました。でも、どこまで理解してもらったのかわかりませんが」

そして、被災から1週間後に長男の遺体が確認された。

「その遺体安置所には私、何回も捜しに行ってたんです。息子の遺体の前を何度も往復していた。それでも息子の遺体だと確認できなかった。息子だとわかったのは、警察官からその遺体から発見された免許証を提示されたからです。あらためて遺体を見ると息子かなって……。その1週間後に見つかった母親は車の中のままだったんで、息子ほどひどい状態ではなかったんですが」

■息子には仲間をいっぱいつくれよと話していた

議員は長男の思い出をこう語り始めた。

「息子は駿一といって29歳でした。勤労青少年ホームの嘱託として働いてました。勤労者のレクリエーションの補助をする仕事です。彼には私の後を継げとか政治家になれとか言ったことはありません。実際、彼は私の選挙活動を手伝ったこともない。ただ、彼には仕事だけでなく仲間をいっぱいつくれよとは話してました。仲間は一生の宝物だから。仲間づくりには今の仕事は最適だったんでしょう。登山道を整備したり、草刈りしたり、彼なりに充実した時間を送っていたと思います。小中高と野球をやっていて、体力もあったし」

年齢的には本誌の読者層にあたる。

「ああ、週プレ、よく読んでたみたいですよ。私なんかも週プレと『平凡パンチ』は毎週のようにチェックしてました。パンチはなくなったけど」

同じく週プレ読者層にもあたる議員の秘書・菊池章太(33歳)も、遺体で発見された。

「大震災のほんの1週間前のことです。三陸縦貫自動車道が彼の地元である釜石市から大槌町まで整備され、彼はその開通式に参加して喜んでいたばかりだったんです。なぜ喜んでいたかというと、釜石に限らず三陸地方は明治時代の三陸沖地震とかチリ地震のたびに、基幹道路である国道45号が津波にやられてマヒしてきた。だから防災のためにどうしても別の迂回路、高規格道路が必要で、彼も奔走してたんです。その念願がかなった途端にこの悲劇ですから……。ただ、今回の被災時には山を走る三陸縦貫道路を目印に逃げて助かった人が大勢います。それだけは私は彼のご両親に胸を張って報告できると思っています。でも、彼は結婚したばかりでね……つらいです」

議員のご家族では、幸い長女は無事だった。

「大地震の後、長女は携帯がつながらなくなり、固定電話なら大丈夫と聞いて知人がいる岩手県内陸部の遠野へ移動していたんです。それで私と彼女とで連絡がついたのは、何日かたってからです。人づてに無事とは聞いていたけど、実際に声を聞くまでは……」

そんな悲惨な現地を首相の菅直人は2011/04/02にやっと視察に訪れた。

「私は政府や党執行部を批判するつもりはありません。しかし、前回の視察予定は『天候が悪い』ってことで中止になったでしょ。なんだかねえ……。

しかも視察している場所は、こちらの首長やら職員がお膳立てしてるとこだけ。そこをSPをぞろぞろ引き連れて回る。また、その周りで世話役よろしく取り巻いているのは市議会議員の候補者とかばっかりですよ。
その様子をマスコミが伝えるわけですが、そこで情報操作もされている。私は現場にいたのでわかるんですが、避難所の人の半分は菅首相のことを『今さら来ても』『もう賞味期限切れ』と言ってました。しかし、そういう意見はメディアでは一切流されない。あきれるしかないですね。私は粛々と地元の国会議員としての仕事、そしてまだ見つかってないかーちゃんと父親を捜していくしかありません」

議員の好物は、かーちゃん手作りのコロッケだと伺ってますが。

「今はかーちゃんの妹が作ってくれてるんだけど、やっぱかーちゃんのコロッケが食いたいね。ホント、うまかったんだから」

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黄川田復興特別委員長の妻、DNAで死亡確認 <2011/08/11 22:55 読売新聞>を編集

 衆議院東日本大震災復興特別委員長の黄川田徹衆院議員(民主党・岩手3区選出)の妻で、震災の津波で行方不明だった敬子さんの死亡が確認された。51歳だった。岩手県警が2011/08/11、発表した。
 敬子さんの遺体は、2011/07下旬、自宅のある陸前高田市に面した広田湾を捜索していた海上保安庁が発見し、DNA鑑定で身元を調べていた。
 黄川田議員の事務所によると、敬子さんは自宅から秘書と車で避難中に津波に巻き込まれた。議員の両親、長男の駿一氏、敬子さんと一緒に逃げた秘書も犠牲になっている。
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