Sclaps KOBE
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2019/9/10 05:30神戸新聞NEXT
標高500メートルに井戸? 神戸市北区の丹生山
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ふもとから眺めた丹生山=神戸市北区山田町坂本
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ふもとから眺めた丹生山=神戸市北区山田町坂本
田園地帯にぽつんとたつ丹上神社の鳥居=神戸市北区山田町東下
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田園地帯にぽつんとたつ丹上神社の鳥居=神戸市北区山田町東下
参道に建立される「丁石」。平清盛が月詣りを行う際の目印にしたと伝わる=丹生山
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参道に建立される「丁石」。平清盛が月詣りを行う際の目印にしたと伝わる=丹生山
約500メートルの山頂付近にある井戸=丹生山
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約500メートルの山頂付近にある井戸=丹生山
山頂にある丹生神社の鳥居=丹生山
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山頂にある丹生神社の鳥居=丹生山
「北マンスリー 街道を行く」。シリーズの冒頭で、神戸市北区山田町(旧山田村)が13の字から構成されていること、約93キロ平方メートルに及ぶ広大な面積は、同区のおよそ4割、神戸市の6分の1を占めることなどを紹介した。旧山田村の中でも、有馬街道の皆森交差点から兵庫県三木市に向かう県道神戸加東線沿いの地域は、古くから摂津国と播磨国を結ぶ裏街道として多くの人々が往来し、豊かな地域文化が育まれてきた。ここからは「山田の郷を訪ねて」と題し、この地に残る遺構や歴史に名を刻む偉人たちの足跡をたどってみたい。(千葉翔大)
神戸市北区山田町東下。丹生山(標高515メートル)のふもとに広がる田園地帯にぽつんと鳥居が立つ。「丹生神社」と記されるが、周囲に社殿らしき建物は見当たらない。坂本で生まれ育ち、山田民俗文化保存会副会長の新田嘉己さん(73)を訪ねた。
「神社は丹生山の頂上にあります。すぐそばには、平清盛が再興したとされる明要寺がありました。神社はその総鎮守社です」
南を六甲山系、北を約14キロに及ぶ丹生・帝釈山系に囲まれた同地域。その昔、神功皇后が行啓した故事から「丹生の山田」と呼ばれ、上質酒米「山田錦」のルーツともいわれる。
新田さんによると、6世紀中ごろ、古代朝鮮の百済から訪れた王家の子孫らが丹生山を開山し、明要寺を建立したという。その後、1180年に福原(兵庫区)に都を移した清盛が同寺を再興し、比叡山に見立てて信仰したと伝えられる。羽柴秀吉の焼き打ちに遭うまでの約400年間、武士や僧侶らが生活していたという。
「一度、見てみますか? 時間あるので一緒に登りますよ」と新田さん。
「真夏」「30度」「徒歩で往復1時間」「汗だく」…。“しんどさ指数”が次々と頭をよぎり、即答できない私に、思わぬ提案が。
「(坂本側から)2つの登山路があってね。ハイカーが使う『表参道』と、丹生神社の祭りの際、必要な物品を運ぶ『裏参道』。裏ルートなら軽トラックで行けるよ」
なんと車で登山とは!
一瞬、驚いたが、何の迷いもなく、新田さんの軽トラの助手席に座っていた。
□ □
頂上までの道幅はかなり狭く、凹凸のある山道が続く。上り始めて間もなく、道の脇に高さ120センチほどの石が等間隔で並んでいるのに気づく。
「あれは何ですか?」
新田さんに尋ねると「丁石と呼ばれる、登山の目印にするための石です」と教えてくれた。清盛が明要寺に「月詣り」するために建立したとされており、ふもとから山頂までの間に、25個の丁石が、約100メートル間隔で立つ。
ヘアピンカーブやぬかるみなど、数々の難所を克服し上へ、上へ。あとわずかで山頂という時、軽トラックは裏参道をはずれ小道へ。「不思議なものをお見せしましょう」と新田さんが指さす視線の先には、約10メートル四方の井戸があった。
「ここは標高約500メートル。こんな高い場所で井戸水があるなんて不思議でしょう」と新田さん。「この水があったからこそ、明要寺で僧侶たちが暮らせ、西の比叡山として栄えたのでしょう」と推測する。
出発からおよそ20分。ようやく山頂に到着。「丹生山城 丹生山明要寺跡」と刻まれた石碑が出迎えてくれた。“山頂の鳥居”をくぐり、いよいよ丹生神社に足を踏み入れた。
2019/9/11 05:30神戸新聞NEXT
平清盛が再興“西の比叡山”明要寺跡を訪ねて 神戸・北区の丹生山
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宝物庫に展示される「明要寺参詣曼荼羅図」
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宝物庫に展示される「明要寺参詣曼荼羅図」
丹生神社へ向かう表参道にある「丹生山橋」
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丹生神社へ向かう表参道にある「丹生山橋」
丹生山城や明要寺が建立されたことを記す石碑
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丹生山城や明要寺が建立されたことを記す石碑
神社境内にある土俵
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神社境内にある土俵
丹生神社から眼下に広がる北区の住宅街
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丹生神社から眼下に広がる北区の住宅街
丹生山(神戸市北区)を西の比叡山に見立て、平清盛が明要寺を再興したのは、福原遷都(1180年)とほぼ同時期。当時、絶頂期を迎えていた清盛が、どんな思いでこの地に、この寺を奉ったのか。その後、訪れる平家の終焉を微塵も感じていなかったのだろうか。跡地に立つ石碑を眺めながら、さまざまな想像をめぐらした。(千葉翔大)
「この上が丹生神社です」。同行してもらった山田民俗文化保存会副会長の新田嘉己さん(73)と坂道を上り切ると、社殿があり、南方向には、北区の住宅街が広がっていた。
「毎年5月のこどもの日になると、ここで『奉納相撲』が行われています」
夏草が生え茂っているが、確かに土俵がある。この地域は、江戸時代から相撲が盛んで、昔は地元の青年団が奉納相撲を取っていた。最近は、小学生らに受け継がれる。
山田郷土誌の中にも、神社の境内などで開く「宮相撲」の記述が残り、勝てば、力自慢の称号を与えられていたようだ。
□ □
帰りは自力で下山することに。来た時の「裏参道」ではなく、「表参道」を進むことを選択した。
「20分程度で下りられると思います」。新田さんはこう言い残し、軽トラックで山頂を後にした。
地面には落ち葉や木々の枝が転がり、ゴツゴツとした岩肌も見える。前日の雨で表面が湿っていて、少しでも気を抜くと滑ってしまいそうだ。清盛が約100メートル間隔に置いた計25の「丁石」をたどりながらふもとへ。上から4番目の「四丁石」から先は、石の階段が現れる。段差が激しく、最大で40センチ以上あった。ここまで来ると、下山し始めたころの余裕はなくなっていた。額からは大きな汗の粒が滴り落ちた。道は左右に弧を描くように曲がる。途中からは同じ道を何度も通ったような感覚に陥ってしまう。
弱音を吐きそうになった時、眼下に橋が架かっているのが目に入った。緑のツタが絡まり、かなりの年季だ。左右に取り付けられた柱には、右側に「丹生山橋」、左側には「昭和十六年八月」とある。その隣には「延命地蔵尊」と書かれた石仏が立っていた。この地蔵を目印に、表と裏の参道が分かれている。
そこに新田さんの軽トラックが止まっていた。「少し掛かったね」と缶コーヒーを手渡してくれた。手元の時計に目をやると出発から30分を過ぎていた。
□ □
無事、下山すると、サプライズが待っていた。毎年、こどもの日にしか開かない宝物庫があり、特別に中を見せてもらえるという。
中は20畳ほどの広さでY字型に区切られ、市指定有形文化財にも選ばれた「明要寺参詣曼荼羅図」が展示される。「平清盛が寄贈した」とも伝えられている。このほか、丹生山を焼き打ちにした羽柴秀吉の関連資料もあった。
「こんなにも歴史を感じることができるとは…」と感心していると、新田さんは静かに口を開いた。
「山田の郷は、まだまだこんなもんじゃない」
標高500メートルに井戸? 神戸市北区の丹生山
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ふもとから眺めた丹生山=神戸市北区山田町坂本
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ふもとから眺めた丹生山=神戸市北区山田町坂本
田園地帯にぽつんとたつ丹上神社の鳥居=神戸市北区山田町東下
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田園地帯にぽつんとたつ丹上神社の鳥居=神戸市北区山田町東下
参道に建立される「丁石」。平清盛が月詣りを行う際の目印にしたと伝わる=丹生山
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参道に建立される「丁石」。平清盛が月詣りを行う際の目印にしたと伝わる=丹生山
約500メートルの山頂付近にある井戸=丹生山
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約500メートルの山頂付近にある井戸=丹生山
山頂にある丹生神社の鳥居=丹生山
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山頂にある丹生神社の鳥居=丹生山
「北マンスリー 街道を行く」。シリーズの冒頭で、神戸市北区山田町(旧山田村)が13の字から構成されていること、約93キロ平方メートルに及ぶ広大な面積は、同区のおよそ4割、神戸市の6分の1を占めることなどを紹介した。旧山田村の中でも、有馬街道の皆森交差点から兵庫県三木市に向かう県道神戸加東線沿いの地域は、古くから摂津国と播磨国を結ぶ裏街道として多くの人々が往来し、豊かな地域文化が育まれてきた。ここからは「山田の郷を訪ねて」と題し、この地に残る遺構や歴史に名を刻む偉人たちの足跡をたどってみたい。(千葉翔大)
神戸市北区山田町東下。丹生山(標高515メートル)のふもとに広がる田園地帯にぽつんと鳥居が立つ。「丹生神社」と記されるが、周囲に社殿らしき建物は見当たらない。坂本で生まれ育ち、山田民俗文化保存会副会長の新田嘉己さん(73)を訪ねた。
「神社は丹生山の頂上にあります。すぐそばには、平清盛が再興したとされる明要寺がありました。神社はその総鎮守社です」
南を六甲山系、北を約14キロに及ぶ丹生・帝釈山系に囲まれた同地域。その昔、神功皇后が行啓した故事から「丹生の山田」と呼ばれ、上質酒米「山田錦」のルーツともいわれる。
新田さんによると、6世紀中ごろ、古代朝鮮の百済から訪れた王家の子孫らが丹生山を開山し、明要寺を建立したという。その後、1180年に福原(兵庫区)に都を移した清盛が同寺を再興し、比叡山に見立てて信仰したと伝えられる。羽柴秀吉の焼き打ちに遭うまでの約400年間、武士や僧侶らが生活していたという。
「一度、見てみますか? 時間あるので一緒に登りますよ」と新田さん。
「真夏」「30度」「徒歩で往復1時間」「汗だく」…。“しんどさ指数”が次々と頭をよぎり、即答できない私に、思わぬ提案が。
「(坂本側から)2つの登山路があってね。ハイカーが使う『表参道』と、丹生神社の祭りの際、必要な物品を運ぶ『裏参道』。裏ルートなら軽トラックで行けるよ」
なんと車で登山とは!
一瞬、驚いたが、何の迷いもなく、新田さんの軽トラの助手席に座っていた。
□ □
頂上までの道幅はかなり狭く、凹凸のある山道が続く。上り始めて間もなく、道の脇に高さ120センチほどの石が等間隔で並んでいるのに気づく。
「あれは何ですか?」
新田さんに尋ねると「丁石と呼ばれる、登山の目印にするための石です」と教えてくれた。清盛が明要寺に「月詣り」するために建立したとされており、ふもとから山頂までの間に、25個の丁石が、約100メートル間隔で立つ。
ヘアピンカーブやぬかるみなど、数々の難所を克服し上へ、上へ。あとわずかで山頂という時、軽トラックは裏参道をはずれ小道へ。「不思議なものをお見せしましょう」と新田さんが指さす視線の先には、約10メートル四方の井戸があった。
「ここは標高約500メートル。こんな高い場所で井戸水があるなんて不思議でしょう」と新田さん。「この水があったからこそ、明要寺で僧侶たちが暮らせ、西の比叡山として栄えたのでしょう」と推測する。
出発からおよそ20分。ようやく山頂に到着。「丹生山城 丹生山明要寺跡」と刻まれた石碑が出迎えてくれた。“山頂の鳥居”をくぐり、いよいよ丹生神社に足を踏み入れた。
2019/9/11 05:30神戸新聞NEXT
平清盛が再興“西の比叡山”明要寺跡を訪ねて 神戸・北区の丹生山
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宝物庫に展示される「明要寺参詣曼荼羅図」
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宝物庫に展示される「明要寺参詣曼荼羅図」
丹生神社へ向かう表参道にある「丹生山橋」
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丹生神社へ向かう表参道にある「丹生山橋」
丹生山城や明要寺が建立されたことを記す石碑
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丹生山城や明要寺が建立されたことを記す石碑
神社境内にある土俵
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神社境内にある土俵
丹生神社から眼下に広がる北区の住宅街
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丹生神社から眼下に広がる北区の住宅街
丹生山(神戸市北区)を西の比叡山に見立て、平清盛が明要寺を再興したのは、福原遷都(1180年)とほぼ同時期。当時、絶頂期を迎えていた清盛が、どんな思いでこの地に、この寺を奉ったのか。その後、訪れる平家の終焉を微塵も感じていなかったのだろうか。跡地に立つ石碑を眺めながら、さまざまな想像をめぐらした。(千葉翔大)
「この上が丹生神社です」。同行してもらった山田民俗文化保存会副会長の新田嘉己さん(73)と坂道を上り切ると、社殿があり、南方向には、北区の住宅街が広がっていた。
「毎年5月のこどもの日になると、ここで『奉納相撲』が行われています」
夏草が生え茂っているが、確かに土俵がある。この地域は、江戸時代から相撲が盛んで、昔は地元の青年団が奉納相撲を取っていた。最近は、小学生らに受け継がれる。
山田郷土誌の中にも、神社の境内などで開く「宮相撲」の記述が残り、勝てば、力自慢の称号を与えられていたようだ。
□ □
帰りは自力で下山することに。来た時の「裏参道」ではなく、「表参道」を進むことを選択した。
「20分程度で下りられると思います」。新田さんはこう言い残し、軽トラックで山頂を後にした。
地面には落ち葉や木々の枝が転がり、ゴツゴツとした岩肌も見える。前日の雨で表面が湿っていて、少しでも気を抜くと滑ってしまいそうだ。清盛が約100メートル間隔に置いた計25の「丁石」をたどりながらふもとへ。上から4番目の「四丁石」から先は、石の階段が現れる。段差が激しく、最大で40センチ以上あった。ここまで来ると、下山し始めたころの余裕はなくなっていた。額からは大きな汗の粒が滴り落ちた。道は左右に弧を描くように曲がる。途中からは同じ道を何度も通ったような感覚に陥ってしまう。
弱音を吐きそうになった時、眼下に橋が架かっているのが目に入った。緑のツタが絡まり、かなりの年季だ。左右に取り付けられた柱には、右側に「丹生山橋」、左側には「昭和十六年八月」とある。その隣には「延命地蔵尊」と書かれた石仏が立っていた。この地蔵を目印に、表と裏の参道が分かれている。
そこに新田さんの軽トラックが止まっていた。「少し掛かったね」と缶コーヒーを手渡してくれた。手元の時計に目をやると出発から30分を過ぎていた。
□ □
無事、下山すると、サプライズが待っていた。毎年、こどもの日にしか開かない宝物庫があり、特別に中を見せてもらえるという。
中は20畳ほどの広さでY字型に区切られ、市指定有形文化財にも選ばれた「明要寺参詣曼荼羅図」が展示される。「平清盛が寄贈した」とも伝えられている。このほか、丹生山を焼き打ちにした羽柴秀吉の関連資料もあった。
「こんなにも歴史を感じることができるとは…」と感心していると、新田さんは静かに口を開いた。
「山田の郷は、まだまだこんなもんじゃない」
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