Sclaps KOBE
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【復興日本】第9部 教訓は生きたか(3)大規模再開発も戻らぬ活気 <MSN産経 2012/01/13 11:03>を編集
神戸市長田区は1995/01/17に発生した阪神淡路大震災で大規模な火災が発生、多くの建物が焼失するなど最も被害が大きかった地域の一つである。そして、最大規模の復興事業と言われたのも、新長田駅南側の再開発だった。
震災から17年、今も再開発事業は継続している。建物9棟の建設が残り、このうち、建設中あるいは事業者が決まっているのは4棟である。
ただ、現在の新長田の街並みを見て、住民の話を聞くと、この復興事業は成功といえるのか、という疑問もわく。
新長田駅南側、30棟以上もの再開発ビル群が林立する「アスタ新長田」。飲食店が並ぶアーケードは街の賑わいを十分感じさせる。神戸市経営管理課も「神戸市が所有する商業床も賃貸で運用しており、契約率は94%」と胸を張る。
ところが、再開発ビルに入り、2階や地下を歩くと印象は一変する。シャッターの下りた店が目立ち、通る人はほとんどない。高層の住宅部分は完売したものの、低層の商業床で売却用店舗の契約は進んでいないのだ。
# 契約されたものも、倉庫として利用されています。
購入店舗の買い戻しを神戸市に要請したり、運営会社に損害賠償を求める民事訴訟を起こしたりする業者も現れている。ある店主は「これだけ空き店舗が多いと、街から活気が失われていく」と表情を曇らせる。
ケミカルシューズ業界の本拠地として大小工場がひしめいていた新長田駅北側はさらに深刻だ。中国やベトナムの低価格攻勢に苦しんでいたところを震災に襲われた。日本ケミカルシューズ工業組合の統計によると震災直前(1994年)の加盟社は226社。それが2011年は95社に減っている。従業員数も約6400人から約2800人にまで落ち込んでいる。
日本の製靴業界をリードした時期もあり、街の顔でもあった地場産業が壊滅的な打撃を受けたとき、行政は何をしたのか。
■企業の体力差 埋めるのは…
「震災直後はなんとかして立ち直ろうと、驚くほど活気が戻っていた」と振り返るのは、新長田で震災前からケミカルシューズ関連工場を営む男性(65)だ。大災害は職人のプライドや負けじ魂を刺激したのだ。
しかし、行政は彼らのやる気を後押しできなかった。震災直後に設けられた仮設工場は神戸市西区など新長田から離れた場所。工場で働く人も遠くの仮設に移り、地場産業のネットワークも寸断された。仮設工場を可能な限り地元近くに置いたり、特別融資制度を設けたりするといった、地場産業を守ろうという行政の姿勢が見える手段は取れなかったか。
新長田の小売業を支えていたのはケミカルシューズ産業の関係者だった。店舗を作っても、地場産業が消え、消費層がいなくなると衰退するしかない。やがて新長田駅北側は住宅が並ぶ地域に変わってしまった。
バブル当時、神戸市は大胆な発想と事業展開で「神戸市株式会社」と呼ばれた。公営住宅造成で山を削り、その土砂による人工島・ポートアイランドに住宅や工場を誘致、博覧会も開催するなど成果を挙げた。「自治体経営の見本」とまでいわれたが、大規模なインフラ整備とハコモノ建設が中心。震災復興ではその限界を露呈してしまった。
東日本大震災の復興でも被災地域を支える産業、企業の力が重要なのは同じだ。宮城県石巻市を流れる旧北上川河口の日和(ひより)大橋に立つと、東と西の風景が全く異なることに気がつく。
東側の漁港では瓦礫が散乱し、地盤沈下による浸水でできた敷地内の池が目立つ。空に突き出す煙突は煙を吐かない。一方、西側の工業港では煙突から煙がもうもうと上がり、物資を積んだ船やトラックが行き交う。この違いは港湾というインフラを支える産業・企業の体力差そのものだ。
工業港には製紙、木材、飼料、造船4業種の工場がひしめき、石巻の雇用を担っている。その1つで飼料大手 協同飼料の石巻工場は2011/06/06に完全復旧した。漁港側では、まだ瓦礫が積まれたままで悪臭が充満していた頃だった。
協同飼料石巻工場の従業員宅のほとんどは全壊。工場や事務所は津波をかぶり、倉庫の原料・商品は流され、機械類も海水で使用不能。瓦礫とヘドロに覆われた。「飼料が届かなければ家畜は生きられない。余計なことを考えず、ひたすらいけるとこまでやった」。3月末から対策本部長として復旧を指揮した茨城・鹿島工場工場長の小形博彦(59)は振り返る。
支えたのは、企業の社内ネットワークだった。石巻工場の復旧まで全国の工場が代替飼料を生産。船、トラック、鉄道を駆使して南東北の畜産農家に供給を続けた。行政からの支援は一切受けなかった。
工業港周辺の立地企業約50社でつくる石巻港企業連合も水道、電気、護岸などの復旧で進み具合の調整などに奔走した。復興計画の素案では工業地帯の面積拡大が決まり、工業港は震災前以上の発展が期待できるとの見方さえある。
これに対して漁港の担い手は中小企業だ。大企業とは従業員数や内部留保、拠点ネットワークで大きな差がある。頼みの国の支援は遅れるばかりだった。
地盤のかさ上げ、汚水処理施設、冷蔵・冷凍設備の復旧。課題は山積していたが、業者が集まって対策を話し合っても、先立つ資金をどうするかで行き詰まり、議論は堂々巡りになった。自力で動き出せた工業港側とは対照的だった。「何回協議しても話が進まなかった」と振り返るのは、鮮魚、冷凍、干物などを扱う中堅水産加工会社社長。漁港側では比較的規模の大きい方になる同社は結局、自前で復旧を始めたが、本格再開は2012/03になる。空白期間は1年となり、どれだけ顧客が戻ってきてくれるかは見えない。
被災地域を支える企業の規模が小さく、体力がないと復旧・復興は進まず、その後の発展も厳しい。行政の支援が中小企業に向かなければなおさらだ。阪神淡路大震災で露呈した問題は東日本大震災でも繰り返されてしまったのである。
神戸市長田区は1995/01/17に発生した阪神淡路大震災で大規模な火災が発生、多くの建物が焼失するなど最も被害が大きかった地域の一つである。そして、最大規模の復興事業と言われたのも、新長田駅南側の再開発だった。
震災から17年、今も再開発事業は継続している。建物9棟の建設が残り、このうち、建設中あるいは事業者が決まっているのは4棟である。
ただ、現在の新長田の街並みを見て、住民の話を聞くと、この復興事業は成功といえるのか、という疑問もわく。
新長田駅南側、30棟以上もの再開発ビル群が林立する「アスタ新長田」。飲食店が並ぶアーケードは街の賑わいを十分感じさせる。神戸市経営管理課も「神戸市が所有する商業床も賃貸で運用しており、契約率は94%」と胸を張る。
ところが、再開発ビルに入り、2階や地下を歩くと印象は一変する。シャッターの下りた店が目立ち、通る人はほとんどない。高層の住宅部分は完売したものの、低層の商業床で売却用店舗の契約は進んでいないのだ。
# 契約されたものも、倉庫として利用されています。
購入店舗の買い戻しを神戸市に要請したり、運営会社に損害賠償を求める民事訴訟を起こしたりする業者も現れている。ある店主は「これだけ空き店舗が多いと、街から活気が失われていく」と表情を曇らせる。
ケミカルシューズ業界の本拠地として大小工場がひしめいていた新長田駅北側はさらに深刻だ。中国やベトナムの低価格攻勢に苦しんでいたところを震災に襲われた。日本ケミカルシューズ工業組合の統計によると震災直前(1994年)の加盟社は226社。それが2011年は95社に減っている。従業員数も約6400人から約2800人にまで落ち込んでいる。
日本の製靴業界をリードした時期もあり、街の顔でもあった地場産業が壊滅的な打撃を受けたとき、行政は何をしたのか。
■企業の体力差 埋めるのは…
「震災直後はなんとかして立ち直ろうと、驚くほど活気が戻っていた」と振り返るのは、新長田で震災前からケミカルシューズ関連工場を営む男性(65)だ。大災害は職人のプライドや負けじ魂を刺激したのだ。
しかし、行政は彼らのやる気を後押しできなかった。震災直後に設けられた仮設工場は神戸市西区など新長田から離れた場所。工場で働く人も遠くの仮設に移り、地場産業のネットワークも寸断された。仮設工場を可能な限り地元近くに置いたり、特別融資制度を設けたりするといった、地場産業を守ろうという行政の姿勢が見える手段は取れなかったか。
新長田の小売業を支えていたのはケミカルシューズ産業の関係者だった。店舗を作っても、地場産業が消え、消費層がいなくなると衰退するしかない。やがて新長田駅北側は住宅が並ぶ地域に変わってしまった。
バブル当時、神戸市は大胆な発想と事業展開で「神戸市株式会社」と呼ばれた。公営住宅造成で山を削り、その土砂による人工島・ポートアイランドに住宅や工場を誘致、博覧会も開催するなど成果を挙げた。「自治体経営の見本」とまでいわれたが、大規模なインフラ整備とハコモノ建設が中心。震災復興ではその限界を露呈してしまった。
東日本大震災の復興でも被災地域を支える産業、企業の力が重要なのは同じだ。宮城県石巻市を流れる旧北上川河口の日和(ひより)大橋に立つと、東と西の風景が全く異なることに気がつく。
東側の漁港では瓦礫が散乱し、地盤沈下による浸水でできた敷地内の池が目立つ。空に突き出す煙突は煙を吐かない。一方、西側の工業港では煙突から煙がもうもうと上がり、物資を積んだ船やトラックが行き交う。この違いは港湾というインフラを支える産業・企業の体力差そのものだ。
工業港には製紙、木材、飼料、造船4業種の工場がひしめき、石巻の雇用を担っている。その1つで飼料大手 協同飼料の石巻工場は2011/06/06に完全復旧した。漁港側では、まだ瓦礫が積まれたままで悪臭が充満していた頃だった。
協同飼料石巻工場の従業員宅のほとんどは全壊。工場や事務所は津波をかぶり、倉庫の原料・商品は流され、機械類も海水で使用不能。瓦礫とヘドロに覆われた。「飼料が届かなければ家畜は生きられない。余計なことを考えず、ひたすらいけるとこまでやった」。3月末から対策本部長として復旧を指揮した茨城・鹿島工場工場長の小形博彦(59)は振り返る。
支えたのは、企業の社内ネットワークだった。石巻工場の復旧まで全国の工場が代替飼料を生産。船、トラック、鉄道を駆使して南東北の畜産農家に供給を続けた。行政からの支援は一切受けなかった。
工業港周辺の立地企業約50社でつくる石巻港企業連合も水道、電気、護岸などの復旧で進み具合の調整などに奔走した。復興計画の素案では工業地帯の面積拡大が決まり、工業港は震災前以上の発展が期待できるとの見方さえある。
これに対して漁港の担い手は中小企業だ。大企業とは従業員数や内部留保、拠点ネットワークで大きな差がある。頼みの国の支援は遅れるばかりだった。
地盤のかさ上げ、汚水処理施設、冷蔵・冷凍設備の復旧。課題は山積していたが、業者が集まって対策を話し合っても、先立つ資金をどうするかで行き詰まり、議論は堂々巡りになった。自力で動き出せた工業港側とは対照的だった。「何回協議しても話が進まなかった」と振り返るのは、鮮魚、冷凍、干物などを扱う中堅水産加工会社社長。漁港側では比較的規模の大きい方になる同社は結局、自前で復旧を始めたが、本格再開は2012/03になる。空白期間は1年となり、どれだけ顧客が戻ってきてくれるかは見えない。
被災地域を支える企業の規模が小さく、体力がないと復旧・復興は進まず、その後の発展も厳しい。行政の支援が中小企業に向かなければなおさらだ。阪神淡路大震災で露呈した問題は東日本大震災でも繰り返されてしまったのである。
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