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天竜川下り転覆事故の余波
乗客4人と船頭1人が犠牲となった天竜川下り船の転覆事故。運営会社の天竜浜名湖鉄道に出資する静岡県や市町による検討会がスタートする中、地元や天竜浜名湖鉄道への余波を追った。
乗客4人と船頭1人が犠牲となった天竜川下り船の転覆事故。運営会社の天竜浜名湖鉄道に出資する静岡県や市町による検討会がスタートする中、地元や天竜浜名湖鉄道への余波を追った。
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天竜川下り転覆事故の余波(上)繰り返した歴史 <静岡新聞 2011/09/07 07:34>を編集
■穏やかな流れ「まさか」
その日も天竜川は穏やかな表情をしていた。
2011/08/17、浜松市天竜区の鹿島橋上流、岩壁に立つ料理店「納涼亭」。店内からは天竜川が一望できる。若女将の河合和子(50)は開店準備をしながら、川の流れを眺めていた。5人の犠牲者を出す、川下り船転覆事故が数時間後に起こるとは予想もしていなかった。
川下り船からは納涼亭がよく見える。乗客が手を振ると、店内の客や従業員が振り返す。日常の光景だった。「(乗船後に)人と出会える場所はここだけだから」と河合。「まさか事故が起きるなんて」と、船の姿が消えた川を見詰める。
緩やかな流れの天竜川を知る住民の多くにとって転覆事故はまさかの出来事だった。だが、歴史をひもとけば、過去にも死亡事故は起きていた。
天竜市史によると、1923年(大正12年)10月、プロペラ船が鹿島の船着場を出発直後、天竜橋(現在の鹿島橋付近)上流で、とび岩に衝突して沈没した。「河川交通の危険性をまざまざと見せつける事故」と、天竜市史は書き残している。
この事故の死者数は9人とも12人ともいわれ、定かではないという。天竜市史の編纂に携わった和田孝子(80)は「乗船距離も短く、乗船名簿などなかった。誰が乗っていたのか、あいまいだったから諸説あるのではないか」と話す。今回の川下り事故でも、乗船名簿の記入が徹底されておらず、乗客の把握に手間取った。
「(郷土の)歴史をやっている人なら知っている事故」。浜松市立内山真龍資料館(浜松市天竜区大谷)の坪井俊三(61)は、プロペラ船の衝突事故をそう表現する。ダムが建設される以前の天竜川では、事故はたびたび発生していたという。川筋には溺死者の慰霊碑、供養塔も残されている。「仕方ないことだけれど、人の記憶はせいぜい20、30年だろう」と坪井さん。記憶からこぼれ落ちた頃だったのか。川下り船の事故は起き、負の歴史が再び刻まれた。
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天竜川下り転覆事故の余波(中)瀬戸際の観光協会 <静岡新聞 2011/09/08 07:48>を編集
■組織の脆さ浮き彫り
浜松市天竜区の天竜川で起きた川下り船の転覆事故は、2003年から天竜浜名湖鉄道に川下りの運営を委託している天竜観光協会(会長:萩田幹雄)の組織としての脆弱さを、図らずも浮き彫りにした。
天竜観光協会によると、転覆事故後、協会幹部が名倉と初めて会ったのは事故から2週間近くたった2011/08/30。事務所は天竜浜名湖鉄道本社と隣接しているが、「忙しい最中に迷惑を掛けてはいけない」と、連絡を取ることにためらいがあったという。
協会幹部らは何度か集まり、対応を協議している。しかし、会話の行き着く先は決まって「(天竜浜名湖鉄道の)取締役会の推移を見てから」。8月中に予定していた臨時理事会もいまだ開催できていない。
そもそも天竜観光協会は2011春から、協会の存廃に揺れてきた。浜松市の相次ぐ補助金カットを端緒としたが、課題の解決を先送りしがちな傾向も見られる。会員は観光業に携わらない一般の住民。ボランティアの側面が強く、会員の高齢化も進んでいるのが実情だ。
「事業内容や収支の見直しが必要」「自己資金を確保するための方策を真剣に考えること」。
2011/03、天竜観光協会の運営検討委員会が萩田に出した「協会の存廃に関する答申書」の一部だ。改選期を迎えていた役員7人は、方向性を示すために2011年度も留任。答申書は「(方向性を)早急に決定していくこと」と求めた一方、状況はほとんど変わっていない。
8月下旬、転覆事故後初めての天竜地域協議会(会長:和田節男)。ある委員は「天竜浜名湖鉄道だけに責任を押しつけるのではなく、川下りの安全について皆で考える必要がある」と指摘した。「協会の存在意義、在り方を考え直す機会にしなくてはいけない」との思いからの発言だったという。
天竜浜名湖鉄道の経営体制や川下りについて協議する静岡県や沿線市町の検討会が2011/08下旬に始まった。仮に天竜浜名湖鉄道が運営の受託を辞退することになれば、川下りは今後どうなるのか。瀬戸際に立つ天竜観光協会の対応にも注目が集まっている。
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天竜川下り転覆事故の余波(下)鉄道事業に影響 <静岡新聞 2011/09/09 08:05>を編集
■沿線ファンが後方支援
川下りを運営している天竜浜名湖鉄道の鉄道施設31件が、新たに国の登録有形文化財になったのは2011/01。転覆事故翌日の2011/08/18は、浜松市長の鈴木康友らが天竜二俣駅で記念碑を除幕する予定だったが中止された。事故による天竜浜名湖鉄道のイメージ悪化、鉄道事業への影響は計り知れない。
遠州鉄道出身の社長 名倉健三が経営再建を託され2009年に就任して以降、天竜浜名湖鉄道は2期連続で黒字を確保してきた。社員の意識改革に始まり、予算管理の徹底。矢継ぎ早のイベント、首都圏への積極的な営業―。変化を感じ取っている住民は多く「頑張っていただけに残念」と、複雑な心境で転覆事故を見つめる。
今期も黒字を見込んでいた天竜浜名湖鉄道。国の登録有形文化財を全面に活用していく方針だったが川下り船の事故を受け、イベント列車の年内運行を中止した。「(イベントなどを)自粛すれば減収は不可避。当初の計画通りにはいかない」と担当者。検討を予定していた2014年度以降の次期5カ年計画も手つかずという。
一方、天竜浜名湖鉄道にとって救いともいえるのは、事故の発生直後から後方支援に回るファンの存在だ。
その一人で天竜浜名湖鉄道の応援団長を自認、静岡県西部を中心にタレント活動を行う まつちよ(43、森町)は「今こそマイレール意識が大切」と思う。事故当日、すぐさま天竜浜名湖鉄道に駆けつけ、川に投げ出された乗客用の着替えを社員に手渡した。「天竜浜名湖鉄道が主催できないのなら自分が企画する」と、天竜浜名湖鉄道の列車を利用したイベントも計画している。「ご遺族の気持ちを考えれば、もろ手をあげてはできない。でも、悪い意味で注目されたからこそ変わっていく姿を見てもらいたい」と、まつちよ。
遠江一宮駅夢づくりの会の久保下和義(59、森町)も「こんな時だからこそ気持ちを一つに応援していきたい」と考えている。
川下り船の事故で国土交通省中部運輸局は、今月中にも行政処分を出す方針を示している。静岡県警の捜査、運輸安全委員会の調査も進められている。来春に開業25周年を迎える天竜浜名湖鉄道。処分を受け止め、事故と真摯に向き合い続けることから四半世紀への歩みは始まる。
(天竜支局・佐藤章弘)
天竜川下り転覆事故の余波(上)繰り返した歴史 <静岡新聞 2011/09/07 07:34>を編集
■穏やかな流れ「まさか」
その日も天竜川は穏やかな表情をしていた。
2011/08/17、浜松市天竜区の鹿島橋上流、岩壁に立つ料理店「納涼亭」。店内からは天竜川が一望できる。若女将の河合和子(50)は開店準備をしながら、川の流れを眺めていた。5人の犠牲者を出す、川下り船転覆事故が数時間後に起こるとは予想もしていなかった。
川下り船からは納涼亭がよく見える。乗客が手を振ると、店内の客や従業員が振り返す。日常の光景だった。「(乗船後に)人と出会える場所はここだけだから」と河合。「まさか事故が起きるなんて」と、船の姿が消えた川を見詰める。
緩やかな流れの天竜川を知る住民の多くにとって転覆事故はまさかの出来事だった。だが、歴史をひもとけば、過去にも死亡事故は起きていた。
天竜市史によると、1923年(大正12年)10月、プロペラ船が鹿島の船着場を出発直後、天竜橋(現在の鹿島橋付近)上流で、とび岩に衝突して沈没した。「河川交通の危険性をまざまざと見せつける事故」と、天竜市史は書き残している。
この事故の死者数は9人とも12人ともいわれ、定かではないという。天竜市史の編纂に携わった和田孝子(80)は「乗船距離も短く、乗船名簿などなかった。誰が乗っていたのか、あいまいだったから諸説あるのではないか」と話す。今回の川下り事故でも、乗船名簿の記入が徹底されておらず、乗客の把握に手間取った。
「(郷土の)歴史をやっている人なら知っている事故」。浜松市立内山真龍資料館(浜松市天竜区大谷)の坪井俊三(61)は、プロペラ船の衝突事故をそう表現する。ダムが建設される以前の天竜川では、事故はたびたび発生していたという。川筋には溺死者の慰霊碑、供養塔も残されている。「仕方ないことだけれど、人の記憶はせいぜい20、30年だろう」と坪井さん。記憶からこぼれ落ちた頃だったのか。川下り船の事故は起き、負の歴史が再び刻まれた。
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天竜川下り転覆事故の余波(中)瀬戸際の観光協会 <静岡新聞 2011/09/08 07:48>を編集
■組織の脆さ浮き彫り
浜松市天竜区の天竜川で起きた川下り船の転覆事故は、2003年から天竜浜名湖鉄道に川下りの運営を委託している天竜観光協会(会長:萩田幹雄)の組織としての脆弱さを、図らずも浮き彫りにした。
天竜観光協会によると、転覆事故後、協会幹部が名倉と初めて会ったのは事故から2週間近くたった2011/08/30。事務所は天竜浜名湖鉄道本社と隣接しているが、「忙しい最中に迷惑を掛けてはいけない」と、連絡を取ることにためらいがあったという。
協会幹部らは何度か集まり、対応を協議している。しかし、会話の行き着く先は決まって「(天竜浜名湖鉄道の)取締役会の推移を見てから」。8月中に予定していた臨時理事会もいまだ開催できていない。
そもそも天竜観光協会は2011春から、協会の存廃に揺れてきた。浜松市の相次ぐ補助金カットを端緒としたが、課題の解決を先送りしがちな傾向も見られる。会員は観光業に携わらない一般の住民。ボランティアの側面が強く、会員の高齢化も進んでいるのが実情だ。
「事業内容や収支の見直しが必要」「自己資金を確保するための方策を真剣に考えること」。
2011/03、天竜観光協会の運営検討委員会が萩田に出した「協会の存廃に関する答申書」の一部だ。改選期を迎えていた役員7人は、方向性を示すために2011年度も留任。答申書は「(方向性を)早急に決定していくこと」と求めた一方、状況はほとんど変わっていない。
8月下旬、転覆事故後初めての天竜地域協議会(会長:和田節男)。ある委員は「天竜浜名湖鉄道だけに責任を押しつけるのではなく、川下りの安全について皆で考える必要がある」と指摘した。「協会の存在意義、在り方を考え直す機会にしなくてはいけない」との思いからの発言だったという。
天竜浜名湖鉄道の経営体制や川下りについて協議する静岡県や沿線市町の検討会が2011/08下旬に始まった。仮に天竜浜名湖鉄道が運営の受託を辞退することになれば、川下りは今後どうなるのか。瀬戸際に立つ天竜観光協会の対応にも注目が集まっている。
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天竜川下り転覆事故の余波(下)鉄道事業に影響 <静岡新聞 2011/09/09 08:05>を編集
■沿線ファンが後方支援
川下りを運営している天竜浜名湖鉄道の鉄道施設31件が、新たに国の登録有形文化財になったのは2011/01。転覆事故翌日の2011/08/18は、浜松市長の鈴木康友らが天竜二俣駅で記念碑を除幕する予定だったが中止された。事故による天竜浜名湖鉄道のイメージ悪化、鉄道事業への影響は計り知れない。
遠州鉄道出身の社長 名倉健三が経営再建を託され2009年に就任して以降、天竜浜名湖鉄道は2期連続で黒字を確保してきた。社員の意識改革に始まり、予算管理の徹底。矢継ぎ早のイベント、首都圏への積極的な営業―。変化を感じ取っている住民は多く「頑張っていただけに残念」と、複雑な心境で転覆事故を見つめる。
今期も黒字を見込んでいた天竜浜名湖鉄道。国の登録有形文化財を全面に活用していく方針だったが川下り船の事故を受け、イベント列車の年内運行を中止した。「(イベントなどを)自粛すれば減収は不可避。当初の計画通りにはいかない」と担当者。検討を予定していた2014年度以降の次期5カ年計画も手つかずという。
一方、天竜浜名湖鉄道にとって救いともいえるのは、事故の発生直後から後方支援に回るファンの存在だ。
その一人で天竜浜名湖鉄道の応援団長を自認、静岡県西部を中心にタレント活動を行う まつちよ(43、森町)は「今こそマイレール意識が大切」と思う。事故当日、すぐさま天竜浜名湖鉄道に駆けつけ、川に投げ出された乗客用の着替えを社員に手渡した。「天竜浜名湖鉄道が主催できないのなら自分が企画する」と、天竜浜名湖鉄道の列車を利用したイベントも計画している。「ご遺族の気持ちを考えれば、もろ手をあげてはできない。でも、悪い意味で注目されたからこそ変わっていく姿を見てもらいたい」と、まつちよ。
遠江一宮駅夢づくりの会の久保下和義(59、森町)も「こんな時だからこそ気持ちを一つに応援していきたい」と考えている。
川下り船の事故で国土交通省中部運輸局は、今月中にも行政処分を出す方針を示している。静岡県警の捜査、運輸安全委員会の調査も進められている。来春に開業25周年を迎える天竜浜名湖鉄道。処分を受け止め、事故と真摯に向き合い続けることから四半世紀への歩みは始まる。
(天竜支局・佐藤章弘)
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